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「ようやくインドか〜ッ!」


 んーッ、と伸びをする面々。三日間列車に押し込められてやってきた為、身体が凝ってしまっている。わたしも皆と同じく伸びをするとごきりと関節が音を立てた。列車、しかも車椅子というのは、どうやら身体を凝らせる原因でしかないらしい。唯一の動きがトイレと寝台車で、主に寝台車でストレッチをして身体の凝りを誤魔化し誤魔化し来た。しかし今日からは違う。食事のあとには抜糸をすることになっているのである。ついに、わたしの時代が来た! いや、全然来ないんだけどね。そんな気持ちになるくらい車椅子は不便で、尚且つ身体が凝るのである。
 一行はストレッチと手続きを終え、駅舎を出た。とりあえず街中へ向かっていると、不意に前を歩いてるジョセフが振り返る。どことなく不安そうにも見える。そんな顔をされたらこちらだって不安になるじゃないか、と思ったけれどわたしの心配とはよそに、ジョセフはまるで敵のことなど忘れているかのように言葉をこぼした。


「わしは実はインドという国は初めてなんだ」

「おれ、カルチャーギャップで体調をくずさねェか心配だな」


 新しい場所に来てどことなく緊張している面々に対し、ジョセフはその緊張感を解してくれようとしているのかもしれない。承太郎がため息と共に肩の力を抜いたところとそれを見て微かにジョセフが笑んだのがちらりと見えて、やはりそうだったのだと仮定は確信に変わった。そんなジョセフの気遣いにわたしは小さく笑みを作って話題に乗っかった。


「わたし、日本から出たことがなかったので、実はどきどきしてます」

「げ、じゃあナマエちゃん初めての海外がシンガポールとインドなの?」

「なんだポルナレフ、インドやシンガポールではダメなのか?」

「いや、その二つを悪く言うわけじゃねーんだけどよぉ。どうせならおれの故郷のフランスに来てもらいたかったぜ! ほら、女の子なんだし、初めての海外だなんていうスペシャルな思い出はそういうオシャレなとこの方がいいじゃねーか」


 ポルナレフの考えには納得できる。普通、女の子の海外旅行って言ったらヨーロッパとか、近場のハワイ、グアムとかアメリカあたりが相場だと思うもの。わたしも正直、ドイツのお城とかフランスの凱旋門とか、そういうところを見に行きたかった。いやでもそもそも今回のこれ、海外旅行じゃないから! 倒すための旅だから! ノーカンだから! ……あれだよ、シンガポールもインドも、否定してるわけじゃないんだよ……!
 貶したわけではないのだが何故か良心が痛む結果となってしまった。そんなわたしの車椅子を押していたアヴドゥルが、フフフと笑って楽しそうな声色でインドのことを話してくれた。


「みんな…素朴な国民のいい国です…わたしが保証しますよ…さあ! カルカッタです。出発しましょう」


 そう言って今度はアヴドゥルを先頭にして、街中へと歩き出した。やはりわたしもカルチャーショックなるものを感じてしまう。まずとにかく人が多い。それから何を言っているのかはわからないけど、とにかく色んな人が色んなことをしゃべっていて耳に響く。風呂に入ってないんだろうな、って感じの子どもがうじゃうじゃ。道路に寝そべる人、犬、牛。クラクションの煩い車。そしてバクシーシ攻撃。でもごめんね、わたしは基本的に何も持っていないのよ。持ってるのパジャマくらいだから。
 アヴドゥルが一番安いふうに見える小銭を取り出して子どもたちに一枚ずつ渡していた。たった一枚のコインをもらって、相手は笑ってくれる。こっちもそれで嬉しくなる。なんて良い連鎖、ときれいごと。
 渡しても集まってくるこどもたちをアヴドゥルが散らして、そのまま飲食店に向かった。席に着いた頃にはジョセフとポルナレフの表情はぐったりと疲れ切っていた。アヴドゥルがそんな様子の二人に快活に笑いかける。


「要はなれですよ。なれればこの国のふところの深さがわかります」

「なかなか気にいった。いい所だぜ」

「マジか承太郎! マジに言ってんの? おまえ」


 孫相手にマジ、とか言っちゃうかわいいお祖父ちゃんであるジョセフを見ていると自然と笑顔になる。そんな明るい空気の中、店員がチャイを運んできた。香ってくる匂いに思わず口がひきつってしまう。これは相当、甘いはずだ。持ち上げてもいないのに甘い匂いが漂ってくるって、どう考えても甘いに決まっている。でも出されたものは、飲まないと。覚悟を決めて、口の奥に流し込む。あ、これ、無理だ……。想像の二百倍くらい甘いそれを、ギリギリで飲み干す。インド人、絶対糖分取りすぎだって。インドって数学とか強いし、めちゃくちゃエネルギー使っているのかな……。

 わたしがチャイと格闘している間に、ポルナレフがトイレに立った。──もう始まるのかと思うと、頭がずきずきと痛んできた。考えても考えても、このあとわたしが取るべき行動がわからなかった。
 ジョセフたちがあれだこれだと言いながら料理を注文している。やはり本場のカレーは辛さもすごいのだろうか。チャイのせいか、インドでは何も食べられない気がしてしまう。なんでもいいから食事は取らないと。料理がテーブルの上を彩ると、いくつか食べれそうなものを見付けてほっとする。こんなところで餓死なんて、笑えないにも程がある。
 ──そして始まりの音。
 四人がポルナレフのいるトイレへと駆けていくのを、わたしはただ見ていた。
mae ato

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