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 名も知らぬ少女の乗った車椅子を押して、市街地へと向かう。レストランに居たのだという彼女が、手を組んでいるJ・ガイルに拐われたことは話を聞けばすぐにわかった。女をいたぶって殺すという信じられない悪趣味があるあの男とは、何がどうしたって今後一切分かりあえないだろうし、相手のことを理解する気もなければ理解したいとも全く思わない。それこそ仕事でなければ──殺したくなるような胸くそ悪いクズ野郎だ。
 しかし仕事は仕事。引き受けたものに私情を挟むというのは己の主義に反する。この子を送り届けたらさっさとやつらを始末して、またこの子のところに戻ろう。あの変態に狙われているとわかっている以上、放っておきたくはない。


「お嬢ちゃん、そういや名前は?」

「あ、す、すみません、ミョウジナマエと申します。お兄さんは?」

「お兄さん、なンて年じゃあねーけど嬉しいねェ。おれァ、ホル・ホース。よろしくな、ナマエ」


 言えばナマエは、にっこりと笑ってから礼と共に頭を下げた。日本人の女ってのはいい。俗に言う大和撫子は、淑やかで礼儀をわきまえて男を立てることができる。後ろに下がって支える、という姿勢に惚れ惚れしてしまう。そういった大和撫子を彷彿とさせるナマエの将来はとても楽しみだった。
 ナマエから目線を上げて前を向くと、タイミングの悪いことに正面を歩くポルナレフの姿が、はっきりと見えた。J・ガイルはまだ来ていない。こちらにはナマエがいる。分が悪い、とでも言おうか。しかしおれを把握できていないだろうポルナレフを相手にするのだから、先制攻撃ができる今ここで見逃すというのは実に勿体無い行為だ。
 ナマエをどこかに隠して──そんなことを思った途端、ポルナレフが驚いた顔をしてこっちを向いた。何故おれの顔がわかったのか、と汗がじわりと滲む。もしナマエを気にせずチャリオッツをけしかけるようなことがあれば、おれもエンペラーを発動する必要がある。
 緊張、
 そしてその緊張はナマエとポルナレフの発した声により、混乱を越えて平静へと戻った。


「ポルナレフさん!」

「ナマエッ!」


 ポルナレフはおれの顔なんて、知っているわけがなかった。だから、知っているのはナマエの方。ナマエはすなわちポルナレフの仲間で、おれが打ち倒される可能性さえあった。なんとも恐ろしい可能性。J・ガイルはそれゆえに拐ってきたかもしれない、が、その可能性は崩れた。それどころかナマエを助けたことで、向こうの一団はおれを信用する。ならばナマエを手渡す際に、ポルナレフを殺すことさえも容易くなるだろう。


「…………けどなァ」


 その行為は、あまりにも男じゃない。ましてや格下相手にやるようなことでもない。信用しきってくれているか弱い女の子を裏切るにしても、一番酷い選択肢。傷つけて傷つけて、ぼろぼろにしてしまう行動。けれど何を選んだところで、この平和の匂いが染み付いた少女を裏切ることには変わりがないのだ。女を泣かせるのは嫌いじゃないが、後悔をする予感だけはしていた。いいや、これは経験から来る確信だ。おれは間違いなく、後悔するだろう。それでも。


「仕事は仕事だからな……」


 世の中に疲れきったオッサンの台詞のようだと我ながら苦笑した。ため息をついて、帽子をしっかりと被り直す。それから車椅子のブレーキを降ろし車輪が動かないように固定して、走り寄ってくるポルナレフにエンペラーを向けた。


「止まんな」

mae ato

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