千空が起きてから約四か月。すでに大樹を見つけ硝酸の洞窟にぶち込んであるが、いったいどれくらいで目が覚めるのか、正確なことは何もわかっていない。今の千空にできることはそう多くなく、繰り返しの検証と、日々の生活をどうにか送ることだけだった。己の体力のなさが恨めしい。絶対に大樹には目覚めてもらわなけれならなかった。体力、気力、根気。どれを取っても己よりも優れている。自分にないものを持っている大樹がいれば、ぐっと前に進めるはずなのに、一人では何もかも足りなさ過ぎた。
 簡易ながら居住空間を作れたため、生活自体は多少なりともマシになった。溜まりに溜まった疲れを取るために、警戒しながら木に寄りかかる必要性がなくなったからだ。


「早く起きやがれってんだ」


 千空はぶつくさと文句とため息をついて、食事を摂ることにした。今日は罠に何もかかっていないので、その辺で見つけた季節外れのグミの実のようなものだ。水と果物があるだけでも、だいぶマシな生活だろう。川がなければ脱水で死んでいたことだろうし、サルどもが食べていた実を見つけられなければ、ビタミンなどが足りずあっという間に弱っていたかもしれない。グミの実を口に放り込もうとしていると、後ろでがさりと音がした。グミの実を狙ったサルか? と千空が振り返ると、予想外の存在がそこにいた。
 結ばれた黒髪、小柄な体躯、千空のように体に皮で作った簡素な服を着た、見たことのない、けれどたしかに、人間が木の上にいた。


「やったあーーーっ!! 人ぉーーーーっ!!!」


 そう満面の笑みで感極まって叫び、女は木を飛び降りたかと思えば、千空にはまるで反応できないスピードで飛びついてきた。まごうことなき、初対面である。ぎゅ、と抱きしめられたが、当然この環境にブラなんていう大層なものはない。むにっ、と皮越しに柔らかいものが押し当てられた。何考えてんだこいつ! 考えているわけもねえが! とっさに女を引きはがそうとしたが、意外に力が強い。


「わかる! 気持ちはわかるが離れろ!!」

「はっ! すみません!」


 言えばすぐに女は体を離した。すこし離れて見ると、女は半泣き状態で、千空よりも小柄で、なぜか狸を首にぶら下げている。もちろん生きている狸だ。非常食ではないだろうが、なんで狸。


「ひ、人ですよね? 人類?」

「そうだ。同じ言語が通じて、その反応から察するにテメーも現代日本人だな?」

「そうです! そう!」


 感極まっているところ悪いのだが、千空にとっては単純に人間に会えた嬉しさは先ほどの謎の抱きつきで吹き飛んでしまっている。今千空が求めているのは、この女が石化から目覚めるまでに何があったかだ。
 千空の仮説では、石化が解けるきっかけは、考え続けることでエネルギーを消費し、さらに硝酸などの外的要因が加わり、亀裂が入るというものだ。千空と同じように、石化が解けた人類がいるのであれば、その分実例数が増える。そうなれば人類は少しずつでも復活に近づくことができる。ゆえに一刻も早く、データが欲しかった。


「おい、テメーは、」

「あっ、名乗りもせず失礼しました。ミョウジナマエです。二十歳です。だいたい三か月くらい前に目が覚めました。あなたは?」


 聞きたかったのは名前でも年齢でもなかったが、呼ぶ名がないと言うのは実際不便だ。ナマエは年上のようだったが、千空はそんなことは気にしない。年上だからと言う理由だけで敬うような殊勝な性格はしていない。
 そして何より、三か月という数字が出た。千空から遅れて一か月後には目覚めていたというのだ。間違いなく、千空と同じように。求めていた実例に、思わず千空の口はにんまりとした笑みを作った。


「俺は千空。石神千空だ。それでナマエ、テメーに聞きたいことが山でもかとありやがんぞ」

「え? あ、はい、なんでしょう?」


 呼び捨てにされてもそれを気にしている素振りがなく、混乱しているだろうに受け入れるあたり、押せば簡単になんでも話しそうなナマエは非常に好都合だった。千空はナマエの混乱など無視して、話を続行することにした。


「まず、俺らが石化していたことは気が付いてんな?」

「そうですね。多分そうなんだろうとは思っていました」

「その間、お前は何をしてた?」


 言われたことが理解できなかったのか、ナマエはきょとんとした表情をした。石化中に何をしていたも何も、石化していたが?と言わんばかりの、言われている意味が分からない、と言う顔だ。けれど聞きたいことはそういうことではないだろう、と気が付いたらしい。そこらへんにいる馬鹿ではないようだ。言葉の裏まで理解はしていないようだったが、ナマエは首を捻りながら答えた。


「実はわたし、石化する前にあと五秒後には死ぬって感じの大怪我をしていまして」

「は?」


 予想外の話が始まって、千空は思わず声を出した。目の前のナマエは、おそらく似たようなサバイバル生活だったろうに千空よりも健康そうに見える。どこにもその怪我の後は見当たらない。ぱっと見、左手首と左肩の模様は亀裂があった場所だろうというのはわかるが……。
 しかし、もしナマエの言葉が本当だとしたら、石化現象自体の大前提がひっくり返る可能性が出てきたのだ。すなわち、石化現象はなんらかの攻撃であるという大前提だ。もちろん、必ずしも攻撃でないとは言えない。怪我が治ったのだとしても、それがただの副産物である可能性もあるからだ。治ったところで石化したままだったとしたらなんの意味もない。


「ぶっちゃけますけど、お腹の中身が出てました」

「はッ!? いや、テメーとんでもねえことになってんじゃねえか!」

「そうなんですよ。それで、視界もかなり悪くなっていて、石化したときは、もう正直死んだんだと思ってて。動けないし、何もわからないし、地縛霊になったと思っていたんですね……」


 そりゃそうだろう。地縛霊かどうかは別としても、千空でもそれは死んだと思う。むしろ今の話を聞いてしまうと、ナマエは石化前に何があったのかの方が気になってしまうほどだが、まあ、それは今はどうでもいい。
 大事なのは石化前にナマエは大怪我を負って、死ぬ寸前だったこと。そして石化が解けたあとは、それらしき怪我は存在していないこと。石化には間違いなく、亀裂の修復程度ではない、治癒能力があると見ていいだろう。……とんでもない情報を手に入れた可能性がある。千空の首の後ろに残っているこれはいざと言うときの切り札として、治さずにいる方がいい。


「そのとき、痛みや意識が朦朧としていた感覚から解放されて、死にそうつらいの状態から、通常通りの思考に切り替わった感じがしました」

「ならその時にあらかた治ったっつうことか……?」

「わかりません」

「あ?」

「そこは第三者に観測してもらってないので、わからないですね」


 ナマエの口から論理的な言葉がもたらされて、千空は一度固まった。別に馬鹿だと思っていたわけではない。たかだか五分ほどの付き合いで、そんなことがわかるわけもない。ただ、一番初めの抱きついてきた印象が強すぎて、感情的な人間だとほんのすこし決めつけていたところはあった。頭の方の働きは期待していなかった分、つい千空の口には笑みが浮かんでしまう。


「たしかにな。今は事実だけを列挙すべきだ」

「ですね。わかっているのは、最終的に怪我が治ったということ。石化してすぐに痛みを感じなくなったこと。わたしの怪我に関する情報はたぶんこんなところです。仮説でいいのなら、神経はそのままにすぐに治ったと考えることもできますし、ゆっくり治っていたけど痛みを感じる神経がほとんど働いていなかったと考えることもできます。あるいはすぐに治っていて、神経もほとんど働いていなかったということもあり得ます」


 検証するためには千空たちが故意に石化を引き起こす必要がある。現時点では不可能なので、証明のしようはないが、どちらもあり得なくはない事象だ。それ以外にもいろいろと考えられる説はあるはずだが、今のところはどうやって復活したかの話をする方が優先される。余裕があればまた話し合ったり、何か本人が気が付いていない情報を引き出す必要もあるだろうが。


「で、そのあとは何してたんだ。痛みがないと思ったあとだ」


 千空が問うと、ナマエはそこで初めて口をつぐんだ。何か思うところがあるようで、言いたくはないという雰囲気を出していた。千空がじろりとした視線を向けると、困ったような顔をしたあと、ようやく口を開いた。


「……いや恥ずかしいんですけど、その………………人生のロスタイム! とか思ってて」

「へえ、人生のロスタイム」

「恥ずかしいんですよ。繰り返さないでもらっていいですか……?」

「それで?」


 自分から茶化しておいて、という視線を向けていたナマエではあったが、その次の言葉はさらりと出てきた。


「脳内で音楽流してました、ずっと」

「──、一度も意識が切れなかったか」

「たぶん、意識が切れたことはないと思います。わたしは自分が死んだと思っていたので、意識が沈むということは完全に死ぬと言うことですよね? だからまあ、いやまだ聞きたい曲があるから、って感じで盛り返してました。イメージ的には湯船つかっていて、意識がまどろんできて、寝そうなことに気が付いてあわててちゃんと起きる、みたいな」


 その感覚は、千空にも非常に覚えのあるもので。ナマエが気を張っていた理由も、千空に非常に近い。起きているべきだと考え、思考し続け、落ちかけては戻るを繰り返した。千空は自分がまだ生きていると思っていて、ナマエはすでに死んでいると思っていたという真逆の考え方で、同じような行動をしていたのだから不思議なものだ。


「どれくらい時間が経ってるか、理解してっかよ?」


 けれど死んだと思っていたナマエが時間経過を気にしてはいなかっただろう。だから、目が覚めたらかなり混乱したはずだ。生きているし、都市は滅びているし、人は石だ。どうなったかもよくわかっていなかっただろう。ずいぶん時間が経っていることは理解しているだろうが、それ以上のことはわかっていなさそうである。そんな千空の考えを、ナマエはやすやすと裏切った。


「だいたい3600年くらいですかね」


 千空が数えた秒数からはズレがある。だが、百年しかズレていない確実に近い数字だ。まったくのゼロから生じる、適当な数字ではなかった。──確実に計算している。何かをもとにして、こいつはどれくらいの時間が経ったか、計算したのだ。頭を使える人間だ。間違いない。少なくとも雑アタマの大樹に比べ、確実にナマエはある程度の教育を受けて、それを実際に使おうとする発想や地頭があるのだ。


「……どうやって計算した?」

「……ちょっとマジで気持ち悪いこと言うんですけど、引かないくれます?」

「引かねえから早く言いやがれ」


 ナマエは実に言いたくなさそうに顔をしかめていた。どちらかと言えば、それは千空にではなく、自身に向けられた羞恥のようなものに見えた。ナマエは千空から向けられる視線に耐えかねたように、小さな声で、ぼそぼそとつぶやいた。


「……流した曲の秒数に、流した回数かけて、それを流した曲分ぜんぶ足して、その秒数を一年間の秒数で割りました」


 その答えを聞いた瞬間、千空は笑いだしていた。切羽詰まった状況で現れた、自分より動けるように上に、自分に少しでもついて来られそうな頭の回転を持つ女──めちゃくちゃな人材じゃねえか!


mae ato
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