千空が目を覚ましたとき、ナマエの姿はそこになかった。冴えきっていない頭をどうにか回転させながら、ぐるりと周りを見渡してみるが、特に何も変わっていない。ナマエがいたあとも、狸もいない。千空はふとそういえばあの狸について聞くのを忘れたことに気が付いて、化かされているような気持ちになってしまったからか、なんだか本当にそんな人間がいたのか疑わしい気持ちになってきた。

 ──切羽詰まった自分が見た、都合のいい幻覚だったのではないか。

 あまりに鮮明な幻だなおい、と思う反面、あまりにもナマエの痕跡が何もなく、彼女の存在を信じがたくなる。まだ夜が明けたばかりだ。ナマエが本当に存在していると仮定した場合、もう活動しているというのだろうか。
 寝ていても何もわからないため、とりあえず千空は起き上がって伸びをした。生活基盤をより強固なものにするため、あるいは石化の謎を解くため、なんにせよぼうっと寝転がっているわけにもいかなかった。


「おはよう、千空くん。早いね?」


 外に出てかけられた第一声に千空の体はびくりと跳ねた。顔をあげると、ナマエが森から歩いていた。どうやら幻覚でも幻聴でもなかったようだ。何かを背負うようにして持っている。よくよく見れば、鹿だった。その上に狸まで乗っていて、かなりの重量があるように見えた。


「早ぇのはお前だ。何やってやがった?」

「お世話になるから何か食べものでもと思って。本当は川にでも行こうかと思っていたんだけど、鹿がいたから獲ってきたよ〜」

「いや獲ってきたよ〜じゃねんだわ。罠じゃねえのかよ」

「罠はなぁ〜……作れないわけではないんだけど、たぶんそれっぽいのを作っても完成度が低くてあんまりかからなかったから、諦めちゃったんだよね」


 あはは、とナマエは笑ったが、どう考えても人間の小柄な女がツノを持った鹿と直接やり合う方がめちゃくちゃリスクが高い。昨日話していたときは賢そうに見えていたはずなのに、おそらくアホだ。
 とはいえ、ナマエの持っている武器を改めて明るい場で見ると、おそらく鹿の角を尖らせたものだった。しかも何をどう見ても赤い何が付着している。ナマエが鹿と戦ったのは一度ではないだろう。千空よりも動けるとはいえ、鹿相手に無傷で勝利できる女がどれほどいるだろうか。ナマエという女は、千空が思っていた以上の人物らしい。あるいは昨夜言っていた『簡単に縊り殺せる』というのは、何ら誇張表現のないものだったのかもしれない。


「さっさと捌いちゃうね」

「血抜きは、──もう済んでんのか」

「あらかた内臓も出してあるよ。食べるの怖そうなところは埋めてきた。鹿って血抜きしにくいし、肉食獣いたら血の臭いで寄ってくるかもしれないし、こわいじゃん? あ、もしかして千空くん、なんかナイフみたいなもの持ってたりする? これだと時間かけて裂くことしかできなくて、お肉劣化しそうなんだよね」


 ナマエの手に握られているのは鹿の角だ。いくら尖らせたと言え、どう見ても刺突武器であって、包丁の代わりになるようなものではない。火にくべるときに肉をさしておくにはよさそうだが、切るという動作には向いていなさそうだった。千空が石器を渡すと、ナマエは少し驚いた顔をした。


「ナイフ、あ、これ石? 石ってことは、ああ……石器かぁ……石器時代、あぁ……なるほど……こういう手があったかぁ」

「ククク、なんだ、思いつかなかったかよ」

「ふふ……まったく気づかなかったね。3か月も動物性のもので戦ってしまった……」


 鹿の角を見つめるナマエはどことなく哀愁を帯びた表情だった。おそらく色々と苦労してきたのだろう。獲物もどれほどかはわからないが、ダメにしてしまったのかもしれない。悲しそうな表情からすこし笑ったような表情へ戻ったナマエは『じゃあね』と言わんばかりに手を挙げた。


「じゃあちょっと川に行ってくる」

「あー冷やさねえと傷みが早えし、ダニがな」

「そう。ほんとダニとかめっちゃついているからね……だから洗います」

「そもそもその狸にダニついんてんだろ」

「わたしが、ダニを、とりました」


 真剣な顔で言ってくるが、ダニがついている狸からわざわざダニをとってまで連れて歩いている理由が理解できず、千空はいぶかし気にナマエを見た。狸の話題を振るより先に、ナマエは川に向かって歩き出してしまった。今日の予定を何と立てていたわけではなかったが、川で出来ることもそれなりにある。今日のところはナマエにいろいろと聞きながら作業をすればいいだろう。


「待て。俺も行くぞ」

「え、まだ寝てたら? 一人で大丈夫だよ」

「もう眠くねえ。手伝いがいらねえなら俺は俺で作業する。文句はねえな」

「ねえですけれども……?」


 ナマエは千空のことをよくわからないものを見る目で見ていたが、よくわからないのはお互い様だ。何せ会ってまだ二日目なのだから。


「ま、親睦でも深めようじゃねえの」



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