ナマエは川辺に着くなり、鹿の解体を始めた。肉の捌き方、骨の外し方、中や毛皮の洗い方。その動きはよどみなく、やけに手馴れていた。千空も勿論鹿を捕まえて解体したことはある。だがここまで手際よく、綺麗に行えるかと言われれば、それはノーだ。プロというほどではないだろうが、明らかに素人ではなかった。


「お前、もともと狩りの経験があったのか」

「現代でのガチ狩猟って意味ならゼロだよ。もともとやってそうに見えたのなら、それはこういうふうになってから単にわたしが基本狩りしかしてないからだねぇ」

「それでも現代人かテメー。どんな生活してんだよ。ちゃんと睡眠取ってやがったんだろうな」


 現代人が生活と言われて思い浮かべるのは、家のある生活だろう。人間らしい生活を送ろうとすれば、間違いなく衣食住を考えるはずだ。それなのにこの女、ソッコーで『住』を捨てている節がある。それどころか鍛えているようにも見えないそこら辺にいる現代人らしからぬ蛮勇さで、鹿とタイマンを張っているというのだから、たぶん頭のネジが数本抜けているのだろう。


「睡眠は取ってるよ。判断鈍ったらすぐ死んじゃうもんね」


 朗らかに言ってくるが、どギツイ事実だ。今の状況で眠気や疲労で判断をミスしたら一瞬で死を迎える可能性がある。とはいえ、一人野外で暮らしていた時点で、気を張らずにしっかり睡眠を取り続けるということは無理なので、そもそもショートスリーパーぎみになっている可能性はあるが。


「そうしろ。絶対につまんねえことで死にそうになったりすんじゃねぇぞ」

「わはは、千空くんもね」


 忠告するまでもなくナマエもそのあたりはわかっているようだ。千空もナマエも、自分の頭の中にある情報以外は何も文明的なものがない石の世界で、一からひとりで過ごしてきている。どれだけ野生動物が危険か、どれだけ服がないことが不安か、どれだけ空腹に苦しんだか、どれだけ火おこしが大変か、そんな『つまんねえこと』をひとつ取りこぼして死ぬ可能性があることを身をもって体感しているのである。


「だから千空くんが家作ってくれてて、しかも住んでいいって言ってくれて助かったなぁ。わたし完全に家は切ってたから」

「そうだろうと思っちゃいたが、正気か? 洞窟かなんかで生活してたのか」


 千空のようにツリーハウスを作らなくとも、もともとあるものを利用するというのは考えられる。洞窟や大きい木のうろなどを利用すれば、雨風をしのいでそれなりに睡眠もとれるだろう。そんなふうに考えた千空だったが、ナマエからは斜め上の回答が帰ってきた。


「ううん。木の上」

「…………木の上、だぁ?」

「毎日わたしとこの子を支えられる太い枝の木を探して、その上で寝る。以上」

「三か月も……それで暮らしてやがったのか?」

「千空くん、寝てる間に襲われないように木の上で眠れるようにするのは基本技能ですよ」


 そんなもん基本技能にされてたまるか。にっこりナマエは笑ってくるが、千空にはそんなことできない。正確に言えば、ある程度までは今ツリーハウスが立っているすこし高い場所では眠るようにしていた。だが、ナマエが今指をさしているのは、むしろ落ちたら死にそうなほど高い木だ。肉食動物を避けるためとはいえ、普通の人間がやれば疲れてきた頃に地面に叩きつけられてお陀仏である。


「だいたいなんで毎日場所を移動していやがった?」

「え? 狩猟生活って近場で獲物狩りつくしたら移動が基本でしょ? だから最低限の全財産を持って動けるようにしてたんだよね」


 実際、狩猟民族は移動しながら生きる。なまじそういった知識があったばかりに、ナマエは『住』を完全に切り捨てて『狩り』に重きを置くことにした。生きるために、ナマエはそういう選択をした。あるいは先ほど言っていたように、罠をうまく活用できればそこまでのことにはならなかったのかもしれない。
 千空とは違った方向に、ナマエは覚悟が決まってしまっていたのだろう。だからそういう生活になった。千空の頭には科学知識がこれでもかと詰まっていて、現代に向けて行動を開始するつもりだったし、人類を復活させるべく研究ができる拠点が絶対条件だった。ナマエにはそういうものはおそらくなく、今を生きるためだけにナマエはこの三か月を生きてきた。そしてナマエはそうしてすでに三か月を過ごし、一人だけで生活が完結できていたのだ。普通はできないだろうが、この女はそれをあっさり成し遂げてしまう順応性が備わっていたようだ。改めて正気かこの女。
 昨日のあの喜びようも、生活に困っていたからではなく、話せる人間がいて嬉しいくらいのものだったのかもしれない。ナマエを見ていると、そうとしか思えなかった。だがナマエが移動するような生活をしていなければ、千空とナマエはそもそも出会うこともなかったかもしれない。


「でもほんと、千空くんがいてよかったよ。正直このままだと冬を越えるのは厳しいかなって思ってたんだよね」

「狩猟生活のみの冬はきついわな。そのご期待に応えられるよう、テメーにも役立ってもらうぞ」

「アイアイサ〜!」


 軽い返事だが、すくなくとも狩りの腕はたしかだ。保存食を作る前に素材を集める際は、間違いなく役に立つだろう。ナマエが鹿を手早くバラしている横で、クズ肉を狸が食べていた。千空が見ていることに気が付いたのか、狸が千空の顔を見て固まった。今初めて千空に気が付いたかのような、そんな顔だった。今更?
 そんな今更気が付いたらしい狸を見て、千空も今更狸について聞いてみることにしてみた。聞こう聞こうと思っていたが、そこまで大した話でもなかったので、優先されず聞けていなかったことだ。


「んで、その狸はなんだ」

「ポンちゃんです。どうぞよろしくね」

「そうじゃねえ! 何目的で持ち歩いてんだ、その狸は」


 わざわざ狸を抱えて、腕を持ち上げて見せるナマエに千空はツッコミを入れる。今までの話から察するに、ナマエは千空の考え方とはズレているものの、なんだかんだ合理的な女だった。少なくとも生活するために『住』を切り捨てた女が、生活するのがやっとの状況でペットを飼うことはない。食事を摂る必要があり、どんくさくて役に立たなそうな、肉だってマズい狸を、連れて歩く理由が知りたかった。


「ん? ポンちゃんは、越冬用の暖房の予定かなぁ」

「……は?」

「いやだってたぬきって美味しくないって言うし、畑とかは襲わないみたいだけど、別に狩りだって得意なタイプじゃないし、実際毛皮くらいじゃない? でも食べもしないのに皮剥ぐのもかわいそうだし」

「捨ててきやがれ」

「そんなママ! どうして! わたし、ちゃんとお世話するから!」

「誰がママだ!!」


 千空がさきほど考えたナマエ合理的説が否定されそうになっている。生活が楽になってきているのならばともかく、毎日の食でさえままならない可能性のある今の状況で狸なんて飼っている余裕がどこにあるというのか。


「冗談は置いといて。わたしが目を覚ました時にちょうど近くにいて、人間の臭いが付いて群れから弾かれた可哀そうな被害者たぬきでね、わたしがまだ全裸だった頃、この子にはお世話になったの。春先の寒さをしのぐ的な意味で」


 ナマエの言いたいことはよくわかった。自分のせいで群れを追い出され、初期には自分の命をつないでくれた恩人ならぬ恩狸。捨ててこい、などとはもう千空も言えなくなってしまった。まあ、間抜けな顔にも愛嬌はある。初対面の人間同士でしばらくはお互いしかいない状況で、軋轢が出てくるかもしれない。そのとき、癒し効果くらいならあるかもしれないと思うことにした。


「……しゃあねえ。ちゃんと面倒見ろよ」

「わあい、ありがとうママ〜」

「そこらへんでうんこさせんなよ」

「了解です。病気になったらマズいもんね」


 そのあたりは理解してくれているらしいナマエに、千空はひとつ安心した。今の状況で病気になっても誰も救えない。極力、清潔は保たねばならない。だからこそ長期的な目では狸も捨ててほしいところだが、千空とて一人のときは近くをうろつく猿に話しかけていたのだ。ナマエの気持ちもわかってしまう。ナマエがダニを取ったと言っていたように、一見ダニやノミも見えず、毛並みも綺麗だ。ひとまず、狸についてはリスクを知りつつも受け入れるしかないだろう。


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