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車内のBGMではペンネーム『クラスの皆には秘密だよ』のリクエスト曲を紹介している最中だった。ハンドルを握る眼鏡の男は赤信号で止まると先ほど駅で拾った客の様子をルームミラーで盗み見ていた。
後部座席の左側に座り窓の外の景色をぼんやりした目で見ている。ガラスに映る瞳の色が赤く見えた。疲れすぎて充血したのだろうと軽く考える。残業を終えた客の表情と似ている気がした。(仕事疲れかねぇ・・・)
信号の色が変わって前の車が進み視線をフロントガラスに戻す。アクセルを踏んでその信号を右に曲がる。この先はあと少しで時期になる桜で有名な並木通り。開花宣言された桜はまだ満開ではないが色を染めていて、その下での酒の味はさぞかし美味そうだと仕事中についにんまりする。そう思えば混み合う花見客で騒がしくなる満開の桜でも待ち遠しい。
「ここはまだなんですね・・・桜」
ハンドルを握る手が思わず強張った。心臓が冷たい手に握られたような驚き方をしてチラチラと上の鏡に目を向ける。相変わらず窓から流れる景色を見つめていて、独り言かと首を傾げる前に鏡の中で目が合った。逸らした目を前方に向けながら慌てて言葉を返す。
「そうですねぇ。満開ではないですがそれももうすぐですよ」
緊張したように言うと何も返って来なかった。再びルームミラーを見る。窓ガラスに頭をつけてさっきとは違った姿勢を取っていた。それを見た途端にあっと思う。
この仕事をしているとそれが眠っているようだとわかったからだ。徐々に下に落ちる頭がそれを決定づけている。
(にしても、妙な客だな・・・。天人か?)
真っ赤な髪は天人だからだろうか。それとも染髪か。どんな客だろうと料金さえ払ってくれればいいがその目立つ色に余計なことばかりを考える。
この男、かつては幕府の入国管理局の長を務める男だったが現在はタクシーの運転手という職に就いていた。以前の職をクビになった時に「まるでダメな夫。略してマダオ」という置き手紙を残して逃げた妻に報告すると喜んでくれていた。電話口の弾んだ声に――またやり直せる――そんな希望を胸にこだわりのグラサンを捨てた男は、乗せた客の風貌が気になりだしていた。やはり見て呉れが強い印象だからだろうか。
イマイチわかりにくかった。長く伸ばした髪を女のように簪で纏め上げて、なんだ女かと思えば、行き先を告げた声質は男そのもので、そのチグハグさに思いかけず振り返って驚くほどに。
新宿で働いているそういった連中をこの車に何度か乗せたことがあるが、この客はどうだろう。天人でも魚の頭でも牛の頭でも声を聞いたりすればわかるものだが、こんなにわからない客は初めてかもしれない。不意に何故気になるのだろうかと思う。そんな疑問を浮かべたが前の職場の情景が頭を過ぎり感じた哀愁にふっと力なく笑んだ。
(変な客・・・)
男か女か。そんなどうでもいいことが気になる変わった客を乗せたタクシーは目的地に近づきスピードを緩める。そして目的地に止まった反動でカツンと窓ガラスに簪が当たった音が後ろから聞こえた。
「お客さん着きましたよ」
車外にはこちらを訝しむように覗き込む黒い制服を着た男がいて、悪いことはしていないのに引き攣る顔にぎこちない笑みが浮かび軽く頭を下げる。なんだってこんな所に。後ろの客に心の中で愚痴る男、長谷川泰三。これから辿る出来事を、起き出した客に運賃を伝える彼は知らない。
この赤髪の客を降ろしたその後は不運な結末を迎えるのだがそれはまた別の話。