「名字さん明日は時間割変更やから、音楽やなくて体育やで」
「あ、そうだった」

 その日の授業が終わってそれぞれクラスメイトが部活や帰宅する中、北はエナメルバッグを肩にかけて、教室出る前に名字に声をかけた。丁度スクールバッグに手帳を閉まっていた彼女は手帳に、北に言われたことを書き込む。北も一緒にその内容を確認して頷いた。「北くんありがとう」と笑って見上げる彼女の頭を撫でて、北は教室から出て行った。彼女は慌てて北の後を追いかけた。

「下駄箱まで一緒に行こう」
「ええよ」
「えへへ。私なんか北くんのええよって好き」
「なんで?」
「分かんない」
「何やそれ」

 彼女と北は学校の間にある僅かな時間を少しずつ二人で過ごしていた。二人でくだらない会話もした。傍から見ると、彼女が一人で笑っていることが多い。でも、北もときどき笑って居たりする。彼女は北の表情が柔らかく崩れる瞬間が一等好きだった。下駄箱について、北は部室へ、彼女は家へ向かう。

「じゃあ」
「ん、また明日」
「うん、あ、北くん頭にいと?かな、なんかついてる」
「え、どこ」
「えっとね、待って、動かないで」

 彼女の手が北の頭へ伸びる。北は反射的に頭を下げた。糸くずはすぐに取れた。でも、彼女の手は北の頭から離れなかった。

「名字さん?」
「北くんよしよーし」
「……急になに」
「いやあ、北くんの頭がこんなに近いの新鮮だから、つい」

 柔らかい手が北の頭を優しく掻き混ぜた。北はびくっとして、すぐに頭を上げる。彼女は「ごめんね」と眉を下げながら、手を引っ込めた。北はむずがゆい感覚に襲われて、ワイシャツの上から胸元を軽く掴んだ。申し訳なさそうに眉を下げて見上げる彼女に気付いて、北は彼女の頭に手を伸ばした。彼女がしたように、彼女の髪を優しく掻き混ぜた。彼女はきょとん、と瞬きをしてから、ふわりと笑った。

「北くんの触り方優しいから好き」
「……」
「北くん?」
「名字さんって」
「うん?」

 腹の下から湧いてくる欲求に北は表情を固くした。彼女は気付かなかった。彼女は首を傾げて、北の言葉を待った。彼女の髪が揺れて、甘い香りがした。北は心の中で、いつかのときのように「あかん」と呟いた。

「部活行かへんの?」
「あ、尾白くん」
「行く。名字さんまた明日」
「え、うん、また明日」
「気を付けて帰るんやで名字」
「あい」

 彼女の「は」と「あ」の間の返事に、北の眉がぴくりと動いていた。でも既に北は彼女に背を向けていたので、彼女は気付かなかった。



「あかん」

 その声に尾白は振り返った。脈絡もなく「あかん」と言い出した北は珍しく表情を崩して、尾白を見上げた。助けを求められるように見上げられて、尾白はたじろぎながらも頷いた。話してみろ、と。

「名字さん見てしまうねん。前より絶対ぼーっとしとるし。だいたい名字さんのこと考えとるときやねん」
「……」

 早い口調で言い終えると、北は眉を顰めた。そして、また「あかん」と続けた。いきなり打ち明けられた尾白の脳内にはクエスチョンマークが飛び交っていた。
 
 北から視点             周りから視点

名字さん見てしまうねん → 名字をちゃんとしているか監視している(ように見える)

前より絶対ぼーっとしとるし → 至っていつも通り(ように見える)

 この変換に数秒かかった尾白は頭を抱えそうになっている北に告げた。

「いや、全然そないな風に見えへんし」
「……」
「全くいつも通りやった」
「……」

 尾白は周りをよく見ていて、気遣いもできる。でも、真剣に悩んでいる北に気休めを言うようなことはしない。尾白は基本無責任なこと言わない。そのことを知っている北でも、素直に言葉を受け取れなかった。その証拠に眉は顰められたままだった。どうやら周りには変わってないように見えても、北の中でかなりイレギュラーなことが起きているらしい、と察した尾白は口を開いた。解決になるのかは分からない。この手の問題は本人たち次第だ。周りは手を出せない。

「名字のこと見たり、考えたりしたらいけへんの?何が困るん?」
「……」
「北?」
「調子が狂うねん。落ち着かへん。……それは、……困るやろ。」
「それって、あかんの?」
「あかん。いけへんに決まっとる」
「なんで?」

 しかめっ面のまま、ひたすら「あかん」と繰り返す北に尾白はトドメと言ってもいい一言を投げかける。北が言葉に詰まって視線を泳がせた。北らしくない仕草だった。尾白はそんな姿を北が見せても、茶化しはしなかった。ただ、「なんで?」とまた北に投げかけた。

「……」
「ほんまにあかん。今名字さんに頭撫でられたときから、確信したねん。名字さんぽやぽやしてて、危なっかしいやろ。ついずっと見てしまうし、気になんねん。なんか……名字さんの、甘い感じがいけへん。癖になりそうやし、せやからつい手で出してまうねん。明らかにクラスメイトの域超えとるし、こんなん彼氏みたいやん」
「彼氏になればいいやん。やったら問題ないやろ」

 何を悩む必要があるんだと尾白は内心首を傾げた。尾白の言葉に北は目を大きく見開いた。

「あかん」
「なんで?」
「……ちゃんとと彼氏できひんと思う。名字さんに寂しい思いさせるかもしれへん」

 北の言葉に尾白はぱちぱち、と瞬きを数度繰り返してふき出した。尾白の様子に北は少し驚きながらも、眉を顰めた。何がおかしいんだ。尾白は迫る北の怒りを「ちゃう、ちゃうねん」と肩を震わせながら、否定した。目尻の涙を指で拭って、尾白は北に改めて向き直った。かなりご機嫌ななめだった。でも尾白の笑いは止まらなかった。

「いや、彼氏になれる前提なんやなって思って」
「!」

 尾白の言葉に北は珍しく顔を赤くして、動揺を見せた。尾白は続ける。

「付き合うってことは名字の気持ちも大切やろ。付き合ったのことは二人で考えればええやん」
「……」

 尾白はもう笑っていなかった。一人の友人としての言葉だった。北は目から鱗が落ちた気分になっていた。

「部活行こうか」
「せやな」



 北は弁当を出して友達の元へ向かおうとしている名字を呼び止めて、あの中庭へ連れ出した。名字は北にお昼を誘われることが初めてだったので、頬を緩ませて北の言葉に頷いた。日陰の冷やりとした空気に北は自分の体温が熱いことに気付いた。心臓は早いし、首筋は熱い。対照的に指先は冷たかった。そんな北に気付かずに、彼女は弁当を開けようとしていた。その手を握って、北は彼女の名前を呼んだ。

「え、北くん手冷たい」
「名字さんのせいや」
「ええ」
「好きや」
「……ええ」
「俺と付き合って欲しい」

 意味がなかった。彼女に言おうと思っていた言葉がすべて飛んだ。彼女の目に真っ直ぐ見つめられたら、本当に言いたいことが口から飛び出た。じんわりと温かい彼女の小さな手が自分の手の中で、震えていた。彼女は大きく目を見開いて、北を見上げていた。そして、彼女の頬に赤みがさして、北から目を逸らして俯いた。その反応に北の心臓は嫌な音を立てた。北の不安も緊張も包み込むように、ぎゅうと握られた。小さな温かい手は北の手を握り返していた。

「……私も」
「名字さ」
「北くんの笑顔が好き。ずっと見てたいって思う」
「付き合ってくれる、ってこと?」
「私で良ければ」

 彼女は気恥ずかしそうに笑った。北は思い切り笑って彼女を抱き締めた。彼女の膝の上から弁当が落ちても、二人とも気付かなかった。どうでもよかった。彼女は北の行動に驚きながらも、嬉しさが勝って北の背中に腕を回した。ぎゅうう、と力いっぱい抱き締めた。



「きた、く」
「まてへん」

 弁当は転がり落ちたままだった。北は彼女の柔らかい髪に指を差し込みながら、バカみたいに無防備に「好き」と普段から繰り返し言っていた唇を塞いだ。彼女に「好き」と言われる度に、頭がおかしくなるかと思った。彼女は知らないだろう。彼女の髪へ触れるとき、北が次第に緊張するようになっていたこと。彼女が北に触れられる度に、柔らかく表情を崩すものだから、自分の理性も脆く崩れそうになっていたこと。北の表情に出てないなりに、北は欲求を我慢していた。彼女からの「北くんのこと好き」は北にとってはGOサインのようなものだった。

 慣れない口付けに彼女はどきどきしながら、北のワイシャツを控えめに掴んだ。何となく、ぐしゃぐしゃにしちゃいけないと思った。ちゅ、ちゅと重ねていた唇が少し離れて、彼女はその隙に息を吸おうと薄く唇を開いた。北はその隙に彼女の唇へ舌を滑り込ませた。びっくりした彼女は肩を震わせたが、北の大きな手が彼女の後頭部を押さえたので逃げれなかった。初めて触れる他人の舌に彼女は不思議な気持ちだった。冷たい空気もあっという間に熱くなって、熱い舌が彼女の口の中を好きに動き回った。その本能的な動きが普段の北らしくないなぁ、と頭の隅で思った。でも、嫌じゃなかった。

 にゅるにゅると、彼女の舌を捕まえて何度も擦り合わせた。少し角度が、触れる場所が違うだけで、全然違う。彼女は舌全体で触れ合って、重ねて、彼女の髪を北の指先がくしゃくしゃする瞬間が好きだと思った。だんだん頭がぼーっとしてくる。キスのことしか、北のしてくれることしか考えられなくなっていく。北の腕の中で好きにされることの気持ち良さを知ってしまった。

 北も北で戸惑いながらも、自分を受け止めてくれる彼女の甘さに頭がくらくらしていた。何度も何度も頭の中で「あかん」「もう少しだけ」と呟いているのに、止まらなかった。ときどき彼女から聞こえる吐息や、小さな高い声に心臓がバクバクした。欲求は深くなっていくばかりだ。

「や、んう」
「……名字」
「きたく、ん」
「ん」

 少しでも離れたくないと思って、でも息は苦しくなりばかりで、唇を離してもすぐに唇を押し付けてしまう。終わりのない行為に見えたが、きゅるきゅると気の抜ける音がした。二人で目を合わせて、瞬きをした。

「ごめん。俺やわ」
「あ、お、お昼だもんね、お腹すくよね」
「あ、弁当落ちとる。ごめ」
「ううん。いい。いいから謝ったりしないで」

 自制が出来ない自分に落ち込んで、若干暗い顔をする北の胸にすり寄りながら彼女は首を横に振った。北は彼女の髪を整えながら、距離をとろうとした。

「恋人がキスをすることは悪いことじゃないもん。謝らないで」
「……せやな」

 早々に自制が難しくなっている北はどこまでも甘い恋人に表情を引き締めた。そんな北の事情を分かってない彼女は呑気に弁当を拾っていた。



 後日、尾白は申し訳なさそうにしながら、中庭のベンチは校舎から見えやすいことをこの二人に告げることになるのだった。



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