のん、すとっぷ前編
北は名字と付き合うようになって、どんな風になるかと少なからず期待と不安を感じていた。だが、そんな北の期待を裏切るのか裏切らないのか極端に日常生活が変わることはなかった。以前よりも、授業の合間の休み時間に話したりすることは多くなったし、彼女の頭を撫でることも日課の一つになりつつある。けれども、互いにそれぞれ友達もいるから、常にべったり一緒という訳でもなかった。帰宅部の彼女は北が部活を終える頃には自分の時間を謳歌しているような子である。ときどき、彼女は自分と同じ高校三年生だろうかと疑問を感じるが、模試の結果はそこそこらしい。彼女は多少ゆるいだけなのだが、人よりも物差しが厳しい北から見れば、だらしがないと思うときもあったりする。
北は彼女のことについて考える機会が増えた。彼女はちゃんと勉強しているだろうか。彼女はちゃんと忘れ物をしないように確認しているだろうか。そんな北の姿を尾白は負担が増えただけなのでは……?ちょっぴり、いや、大分心配していた。しかし、それは逆に彼女と北が連絡を取り合うきっかけとして働いていると知ったときに尾白は彼女の特徴を思い出していた。『自分に甘く他人にも甘く』がモットーな彼女は連絡のスピードもゆるかった。それこそ、北と同じクラスで隣の席ならば、「明日北くんに会えるからいいや」と恋人らしく連絡する機会がなかった。案外、世界は上手く回っていると尾白が一人で頷いていたときに、その事件は起こった。
いつも通りの北と尾白の二人きりの帰り道のことだった。北は手の中のケータイを見下ろしながら、眉を顰めていた。北らしくない様子に尾白は首を傾げた。
「どうしたん?」
「いや……何もない」
「名字のことやないの?北よりは名字と付き合いあるから、何か言えるかもしれへん」
「……」
尾白の言葉に北はしばらくして、口を開いた。
「名字さんからあんまり連絡こうへん……、俺ばっかりやから、本当は嫌なんかなぁって」
「……いや、ただ面倒なだけやろ」
「めんどう」
北の表情が固まった。尾白は言葉選びを間違ったと、焦った。慌てて自分のケータイを取り出して、北へ見せた。そこにはシンプルなメッセージや着信記録が残っていた。
「ほら、こことか三日後やで?名字はゆるい……まあ、ずぼらやからな。こまめの性格やないし、むしろlineの返事普通に学校で返すとかあるし。気にすることあらへんよ」
「……俺名字さんと電話したことないわ」
墓穴を掘った。尾白の口角が微妙な高さで止まって、どうすればいい?と必死で思考回路を動かしていたとき、場違いな気の抜けた声がした。
「尾白くん北くん、部活帰り?」
「あ」
「名字さん」
ナイスタイミングや!尾白は心の中で大きいガッツポーズを決めた。彼女は大きめのパーカーにジーンズを合わせた格好で、エコバックを持っていた。親に頼まれたお使いの帰りだった。彼女はいつものように笑いながらも、北くんに遭遇するって分かってたらもっとちゃんとしたのに……、と地味に凹んでいた。北は口をへの字にして、彼女を見下ろす。彼女は不機嫌そうな北の態度に状況が飲み込めず、尾白に助けを求めるが尾白は「GoodLuck」と見た目に似合う流暢な英語を残して、薄暗い田舎道に消えて行った。
なんでこんな遅い時間に外に居るんだとか、本当は俺と連絡するの面倒ではないのかとか、無理して付き合ってるのではないかとか、尾白と電話しても俺とはしていないとか、たくさん彼女に言いたいことがあるのに、口が動かない。目の前の彼女は困ったように眉を八の字にして、小首を傾げている。そんな仕草でさえ、腹が立っているのに可愛いく見えるから……どうすればいい。完全に北は詰まっていた。色んなものが。動けなくなっていた。唐突に彼女はごそごそとエコバックから、チロルチョコを取り出した。
「北くんプリン食べてたから、甘いの平気?かな?」
「食べれんわけやないけど」
「じゃ、はい」
彼女は包装をといて、そのままチョコに触れないように上手く包装紙の上からチョコをつまんで、北の唇へ押し付けた。名字さんの行動って、なんでこんなに読めへんのや。北が戸惑っていると、彼女が目を大きくして少しだけ照れたように笑った。
「これ、あーんみたいだね」
「……」
「私ね、チロルチョコはきなこが一番好きなんだ」
彼女はパーカーのポケットに包装紙を入れながら、もぐもぐと自分の分もエコバックから取り出して口に放り込んだ。北は歯を動かして、飲み込んだ。口の中にねっとりとした甘さが絡みついて、むせそうだった。思わず座り込んだ。彼女にぶつけてはいけない感情がそのまま、出そうになった。地面に追突するようにエナメルバッグが着地して、大きい音を立てた。彼女はびっくりして首をすくめながらも、エコバックを慎重に下ろして北と同じように座り込んだ。
「北くん?ごめん、嫌いな味だった?」
「ちゃう、名字さんなんなん」
「え、……北くんが何か思い詰めたような顔をしてるから、疲れてるのかなって。だから甘い物?」
思い詰めていたのは名字さんのせいや……と言いたくなった北だったが、彼女のせいで凹んで、彼女に元気づけられるなんて、……意味が分からない。北は自分の初めての感情の動きについて行けなくて、戸惑いばかりだった。彼女のこと好きになってから、妙に緊張したり、考え込んだり、脱力させられたりで忙しい。
「名字さん俺と付き合ってて楽しい?」
「え、……前から思ったけど、北くんって唐突だよね。ちょっと、待ってね」
唐突なのは名字さんや。心の中で突っ込みながら、北は腕を組んで考え始めた彼女を盗み見た。私服の所為か、いつもより彼女の匂いが強い。ええ匂いやなぁ。
「なんか、楽しいっちゃ楽しいんだけど。その、分からないこともいっぱいあって、ちょっと大変かも」
「分からんこと?」
「うん、北くんに何かlineするにしても上手く話題見つけれないし、……北くんの邪魔になったりするんじゃないかとか。くだらない内容で飽きられたどうしようとか、尾白くんに相談して、というか弱音吐いたり」
「弱音?」
「北くんが連絡くれるけど、嬉しい、嬉しいんだけど……重荷になってないかなとか、私がちゃんとしてないから、しっかりしなきゃとか……、北くんは私と付き合ってて、疲れないのかなとか。今度はいつしてくれるのかなぁ……とか」
彼女の言葉に一つ一つ自分のわだかまりが解かれていくのが分かる。なんだ。彼女も俺のことを考えていてくれたのか。それだけで、彼女の言葉だけでバカみたいに悩んでいた種が消えて行ってしまう。北は穏やかな眼差しで彼女の言葉に耳を傾けていたが、眉を顰めた。最後が聞こえなかった。ごにょごにょ、としか聞こえない。
「名字さん、なんて?」
「いや、なんでもない」
「あかん。言わんと、あかん」
「なんで、言わなあかんのですか」
「あかん」
「あかんくない」
「あかんもん」
絶対に言いたくない彼女と、絶対に知りたい北という図になって、二人とも最初の目的を失っていた。そのせいで、北は北らしくない子どもっぽい口調に、彼女は意地っ張りでもないのに変な意地の張り方になっていることに当の本人たちは真剣で気付いていない。言い合いの押収が落ち着いたかと思ったら、視線の攻防にシフトした。明らかに優勢なのは北だが、彼女も負けじと北を見つめ続けた。仮にも好きな人をずっと見つめることに慣れていない彼女は睨むというよりも、何か言いたげに見つめる形になってしまった。見方によっては彼女の甘えるような目つきに北は内心呻いた。
きっと初めは彼女のゆるさを甘えと思っていて(実際甘えの場合もあるが)、その『見ていて煩わしい甘え』が『何度も欲しくなる甘さ』に北の中で変わってから、北にとっては彼女はたった一人のかわいい女の子になっていた。今までは意識しなかった彼女の仕草や表情が一つ一つ可愛いく見えてくるから、困る。非常に困る。気付いたら、北は彼女の腕を引っ張っていた。北くんを怒らせた……?と混乱している彼女は北について行くことしか出来なかった。
北の家に着いて、彼女は足を止めようとしたが止まれない。北はずんずんと歩き続ける。日本家屋っぽい……、サスペンスドラマで見たことがある気がする。こんなときでも、彼女は悪癖を発揮する。早々に気が逸れて、立派な北の家や庭をきょろきょろと見渡していた。興味をそそられるらしい。庭にある古びた物置というか、蔵のような建物の扉を開けて踏み入れると、北は彼女を壁に押し付けた。さすが北くんのお家だ。全然埃っぽくない。綺麗だ。
口を開いて、蔵の中を見上げる彼女の様子に北は眉を寄せる。俺ばかり彼女に振り回されている気がする。その、ぽかんと開いている口を塞ぐように北は彼女に口付けをした。彼女は急なことに驚きながらも、北の背中に腕を回して受け入れた。ずっとずっとして欲しかった。ここ最近は全然二人きりになれなかった。尾白の「中庭で……アレはあかん」と注意を受けてから、北は外で全然スキンシップ取ってくれなくなった。頭は撫でてくれるけど、……けど、彼女は小さな不満を胸に溜めていた。その不満が一瞬にして、消えた。ずっと欲しかった北の熱を感じながら、彼女は目を閉じた。
揺るがしたくて彼女にキスをしたのに、彼女はぎゅううと抱き着いて来た。むしろ喜ばせた気がする。別にそれでもいいんだが。そもそも俺は何を悩んでいたのか。それすら分からなくなりそうだった。ただ久々に重ねる唇の気持ち良さに全てがどうでもよくなりそうだ。ダメだと思うのに、北の舌先は小さくなっている彼女の舌をつついて、絡めてしまう。甘ったるい味が口いっぱいに広がって、北は一日の疲れも何もかも忘れていく感覚に襲われた。
北はジャージを脱いで、エナメルバッグの上へ乗せるように放る。彼女は北の行動に戸惑っていたら、北に「名字さんバンザイして」と言われてつい素直に両手をあげてしまう。信じられないぐらい手際をよくパーカーを脱がされてしまい、彼女は目を丸くした。北は脱がせた彼女のパーカーも同じように放ろうとして、手が止まる。思わず、好奇心に負けた。まだほんのり温もりが残るパーカーに顔を埋めると、彼女の匂いがした。彼女は北の行動に唖然として、放心しそうになったが、踏みとどまる。
「きっ、たくんっ!?」
「あ」
「あ、じゃないよ!もう!」
北からパーカーを取り戻して、彼女は真っ赤な顔のままで北に背を向けた。え、なに?北くんどうしたの?……もしかして、よ、欲求不満?なんて、彼女が失礼なことを思って居ると、北に後ろから抱きしめられた。失礼なことを考えたのバレた……?彼女がどきどきしていると、北の鼻先が喉辺りに触れてくすぐったい。
「やっぱ、こっちの方がええわ」
「え、あの、」
「本物の方がええ。名字さんがええって、こと」
「ん」
北は彼女の頬に唇を寄せて、何故か置いてある畳の上へ彼女の腕を引いて腰を下ろした。彼女は座ったことで態勢は安定したが、読めない北の行動に心は不安定だった。制服よりも、シャツ一枚で抱き締められると大分違う。彼女はいつもより近い距離で感じる北の体温に頬を赤くした。北は彼女の髪に鼻を埋めながら、彼女の身体をまさぐった。キャミソール越しとは言え、彼女は北の手が身体の輪郭を辿るように触れられて、頬が熱くなる。いつもと、違う。心臓が早くなる。肩から、二の腕へ。二の腕で手が止まるので、彼女の心臓はどくどくともっと早くなる。北は自分とは違う、身体の柔らかさに新鮮と感動を感じて、ふにふにと感触を楽しむように触れた。しかし、彼女にとってみれば二の腕は憎きぜい肉がたまりやすい場所で、正直あんまり触られたくない。
「名字さんのここ、好き」
「そ、そう……?」
「うん。触ってて気持ちええもん」
「な、なによりです」
北は腕の中に彼女がいることに満足してしまって、悩んでいたことさえ忘れかけていた。色付く丸い耳にキスをしながら、彼女に囁いた。
「名字さんも俺に連絡して、なんでもええから。あと、電話もして」
「え、迷惑じゃない?」
彼女は唐突な話題に驚きながらも、北の方へ振り返った。北は目を丸くして、驚いた。彼女も、こんな不安そうな顔をするのか。知らなかった。彼女の上目遣いに、ついキスで応えてしまう。またまた唐突なキスを彼女は驚きながらも、受け入れる。唇が少し、息が触れ合う距離で北は答えた。
「迷惑やない」
「でも、疲れてるときとか、忙しいときもあるよね……?」
「そんときは言う。いつもそうとは限らん」
「そ、そっか」
「うん」
彼女の不安はなくなっただろうか。頷いた彼女を抱き締めながら、北は彼女を離したくないと思ってしまっていた。そんな北の心を読むように、ジャージのポケットのケータイが振動し始める。北に抱き締められていた彼女も、その振動が伝わって二人で肩を震わせた。
「あ、……」
「ど、どうしたの?」
「いや、親が法事で今夜誰も居らんよってメール来てた」
「そ、そうなんだ」
「……」
北の言葉に彼女もお使いの途中だったことを思い出した。パーカーを抱き締めながら、彼女は北の腕の中で大人しくしていた。このあと、どうなるんだろう。本当は分かっている。このまま北と別れて帰って、遅くなったことに対して親から文句を言われる。お風呂に入って、寝る。ただ、それだけだ。明日が土曜日で良かった。もし明日が学校だったら、色々と疲れたまま行くことになったに違いない。頭の中では分かっているのに、心が言う事を聞かない。だって、北が離してくれない。嫌でも、期待してしまう。この出来過ぎた状況に。でも、北だからこそ、ないのだ。そうだ。ない。
「名字さ……」
「!」
いきなり聞こえた地鳴りのような音に二人で目を合わせる。その音が始まりのように、次々に打ち付ける音が周りに響いた。心なしか気温が下がったような気がする。彼女は北の腕に掴んで、小さくなった。北も彼女を抱き直しながら、天井を見上げる。
「夜になったら天気崩れるって言うてたなぁ」
「そ、そうなんだ」
「名字さん天気予報見ひんの?」
「あんまり……」
「せやから、友達に傘入れてもらうこと多いんか」
「うっ」
彼女は懐かしい気持ちになりながら、北から視線を逸らした。久々にお説教された。話題、話題変えよう。
「帰り走って帰れば、大丈夫かな」
北は自分の腕の中にいるのに、呑気にへらりと笑っている彼女に眉を顰めた。なぜ、そうなる。北は彼女を強く抱きしめると、彼女の頼りない肩に思い切り噛みついた。そのまま北は彼女の肩に額を押し付けた。
「いた、痛いよ、北くん」
「何となく」
「何となくで、噛まないで欲しい」
「名前帰らんで」
彼女は声が出なかった。北らしくない、北の言葉に驚いた。急に名前を呼ばれた。北が噛んだところ押すように額を押し付けて痛かった。どれが理由なのかは分からない……、いや、全部が理由だった。肩の痛みよりも、どくんと強く鼓動を打つ心臓の方が痛くて苦しかった。真に受けていいのだろうか。つい、言ってしまっただけではないのか。彼女はロボットのようにジーンズのポケットから、ケータイを取り出していた。ケータイを操作する間も、北の拘束は緩まなかった。動きづらい。
「もしもし?……うん、急なんだけど、友達の家泊ることになった。そう、いつもの子のとこ。
なんか受験疲れみたいで話聞いてって、……うん、食パンだからいいでしょ?うん、分かってる。じゃあ」
彼女は通話を切って、北の頭を撫でた。これでいいの?冗談だったら、どうしよう。いや、冗談だったら、普通に帰るけれども。のっそりと北らしくない動きで北が顔を上げた。
「食パンってなに?」
「あ、ああ。お使いで頼まれたの。うっかり小腹がすいて、明日の自分の分食べちゃって」
「そっか。急ぎやないんや」
「うん……あの、北くん」
「うん?」
「その、私、北くんの……」
「うん、泊って。俺受験疲れやから、癒して」
彼女も北も知らなかった。北が都合のいい嘘をつけること。彼女が誤魔化すことが意外と上手いこと。外は二人とは対照的に冷たくうるさかった。まだまだ今夜はお互いに知ることがありそうだ。
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