一時停止
1
名字名前は機嫌が悪かった。何か大きな出来事があった訳ではなく、日に日に小さな不満が彼女の中に溜まっているのだ。その原因を目の前に見つけた彼女は軽くたいあたりをかました。弱くとも不意打ちならば、それなりに威力はある。急なたいあたりを喰らった尾白は大袈裟なリアクションを取って、後ろを振り向いた。視線を下げると、眉を顰めた彼女を見つけて尾白は眉を下げる。
「いきなり危ないやろ」
「だって、だって」
尾白くんが北くんにあんなこと(中庭でイチャイチャするのはやめなさい)言うから、最近抱き締めてくれないし、ましやてキスもしてないんだよ、とは言えない。彼女は唇を尖らせるだけで、尾白の脇腹に拳を向ける。全然痛くない。くすぐったい刺激に尾白は笑いながら、彼女の頭をぽんぽんと撫でた。その触り方に彼女は北の撫で方を思い出して、余計に北が恋しくなった。ごすごす!と音をさせるほどの拳を向けたいが、尾白は大事な選手だ。彼女は自分で効果音を付けるだけで、我慢した。
「ゴスゴスゴス」
「名字その物騒な音やめてくれへん?」
「やめてくれへんー!」
彼女はやけぱっちで変な関西弁で、尾白のわき腹をくすぐり始める。
「こら名字」
ああ、北くんが恋しい。ぎゅってしてほしい。キスしてほしい。私たち付き合い始めたばかりなのに、なのに……。涙を浮かべて彼女の両手を捕まえようとする尾白を見ながら、彼女は心底思う。こういうじゃれ合いだって、北くんとしたい。でも絶対足りない。すぐにくっ付きたくなる。失礼なことを思われている不憫な尾白はチャイムが鳴るまで彼女のくすぐりの餌食となった。
2
「北……どうしたん?」
「少しあかんか?」
「あ、あかんことはないけど……」
赤木路成はストレッチの途中にすすっと何気なく寄ってきた北に首を傾げていたが、その姿勢のまま動けなくなってしまった。優しく頭を撫でられて、赤木は北を困ったように見つめる。北はいつもと変わらず、いやいつも以上に真剣な顔で赤木の髪に触れている。強弱の調整、触れる指先、手のひらの面積、髪を梳かすように、ぽんぽんとしてみたり北は様々なバリエーションを試してから赤木をじっと見つめる。互いに見つめ合って、よく分からない空気になっていた。
「どれが良かった?」
「……え、いや、どれも別に悪ないけど」
正直に言うと、あんまり北に頭を撫でられてもうれしくない。たまになら、いいけれども。北は表情を変えなかったが、どこか落胆したように「そうか」と相槌を打つ。
「どないしたん?」
「……何でもあらへん。すまんな、邪魔して」
「いや、大したことあらへんけど」
そんな赤木と北のやり取りを見守っていた角名は自分の知らないところで、何か面白いことが起きていると聞き耳を立てていた。そのとき、頭に温もりを感じた角名は慌てて顔を上げる。そこには真顔で角名の頭を撫でる北の姿があった。
「あの……?」
「角名の方が似とるかもしれへんな」
「え」
何の話ですか?と続くはずだった角名の言葉は途中で消えてしまった。北が監督に呼ばれてしまったからだ。北の不思議な行動に巻き込まれた赤木と角名は互いに目を合わせて、首を傾げた。
(名字さんの頭撫でるぐらいしか、最近触れん……名字さんの好きな触り方したいし、あかん……名字さんが足りひん)
3
最近、北は自分の右頬を触る癖が出来ていた。今日も隣の席からこしょばい視線を感じて、右頬を手の甲で隠す。そっと隣の席を盗み見れば、北の視線に気づいた彼女が嬉しそうに笑う。北は表情を引き締めて、眉を顰めた。彼女は困ったように笑って、黒板に向き直った。そして、北も黒板へ視線を向ける。もどかしい思いには見ないふりをして、北は黒板の前で数式について説明している先生の言葉をノートに書き込む。この先生はあまり板書をとらない。集中しようとしても、彼女の方から明らかなしょんぼりとした空気を感じ取って、北の眉がぴくりと動いていた。
「ありがとうございました」
授業が終わって、彼女は机に頬を押し付けながら北の方を見つめていた。殆んど無意識のレベルの行動だ。北を求めている。北に触りたい。北に触れて欲しい。こんなに近いのに、前は話せるだけで、北の笑顔だけで、満足だった自分は何処に行ったのだろうと彼女は不思議に思った。北のことを知れば知るほど、北のことが欲しくなる。恋は麻薬なんて言うが、その通りらしい。まさか自分がそんな風になるなんて、彼女は気恥ずかしくなって机に伏せてしまった。
「名字さん」
「!」
「気分でも悪いんか?」
彼女の頭を手のひら全体で撫でて、北は小さく喉を鳴らした。柔らかく手触りのいい彼女の髪は彼女の身体の柔らかさを思い出させる。あかん。誰に言うでもなく、北は小さく呟く。名字さんのことを好きになってから、俺はあかんしか言ってない気がするわ。彼女はそろりと顔を上げて、北の手に甘えるように擦り寄った。思わず北は手を引っ込めそうになった。
「悪くないよ、だいじょうぶ」
「なら、ええんやけど」
(北くんが圧倒的に足りないとは言えないなぁ)
(名字さんここ教室やで……でも、名字さんが甘えてくれるから触れるんやけど)
4
「うっ」
北の小さな呻き声がして、北の手のひらにはべっとりと精液が零れた。荒い息を整えて、傍に置いたティッシュで手を綺麗にする。そのあとに、ウェットティッシュでも拭いておく。ゴミ箱にそれらを捨てて、ベッドへ転がった。さっきまで北の頭の中には、見たこともない彼女の姿があった。制服の下に感じる彼女の温もりや柔らかさが忘れられない。いや思っているだけ、忘れているかもしれない。北は自分の髪をくしゃくしゃと乱して、自分の手を見つめる。
この手で、俺は彼女に触れている。俺の、こんな欲求も知らないで彼女は幸せそうに笑う。
彼女の、笑顔が好きだ。それは嘘じゃない。出来ることなら、ずっと笑って居て欲しい。それと同じくらい、彼女を暴いてみたい。矛盾している北の欲求。でも、そのどちらも北の、本当の欲求だった。今まで積み上げてきたものを、一つの欲求で台無しにするほど北はバカではない。ではないけれども、その一つの欲求を無視できるほど、冷徹でもない。
「名字さん……今日うたた寝しとった」
注意された中庭のベンチで、彼女は無防備に寝ていた。猫のように身体をまるめて、器用に寝ている彼女に北は和んでしまったが、すぐに彼女の元まで向かった。あないに無防備に寝とったら、何されるかも分からへん。そんな北の心配も知らずに彼女は可愛らしく寝息を立てていた。北は彼女の寝顔を覗き込んで、何故か無性にデコピンをしたくなった。彼女の髪を撫でていると、彼女の薄く開いた唇がやけに目についた。
「……ん?」
「あ」
「きた、くん?」
「……」
「いたっ」
「こんな所で寝たらあかんやろ、名字さん」
北は彼女から離れて、誤魔化すように彼女の額を軽く弾いた。彼女は額を押さえながら、首を傾げる。腑に落ちない彼女の手をとって、北は教室へ戻った。
俺は無意識にキスしようとしとった。多分、いや、絶対彼女があそこでおきんかったら、しとった。北は寝返りをうって、ため息をついた。自分がこんなにも、忍耐力がないとは思わなかった。彼女へ持っている欲求をぶつけないように、していたことがある。最後の、最終手段のようなものだった。でも、今日彼女の知らないところで俺は彼女に手を出しそうになった。北は起き上がって、学習机の上の時計を見た。まだ時間はあった。
「ねえねえ信介くん」
「ん?」
北と彼女は弁当を食べ終わって、中庭から教室まであまり生徒の通らない道で帰ることが多くなった。北は自分の腕に抱き着いた彼女を見下ろして、首を傾げる。目を好奇心でいっぱいにした彼女は北の耳に口を近づけた。
「男の子って普通持ってるもの、なの?」
「?」
「こ、コンドーム」
彼女は踵を下ろすと、北の腕を逃がさないよう強く抱きしめる。北はまた唐突なことを……と呆れた目で彼女を見たが、彼女の髪を撫でてて笑った。
「内緒や」
「え、どうして?」
「名前は知らんでええねん」
「え、ええ」
不満そうな彼女の声に北は笑いながら、歩き出す。さっきから柔らかい身体を押し付けて、北の理性を揺さぶっているお返しとは知らずに彼女は唇を尖らせた。北は不意打ちで、その尖っている唇にキスをして彼女を抱き締めた。彼女は顔を真っ赤にして、たじろいでしまう。
「えっと」
「名前」
「はい」
「好きや」
北はコンドームを本当は買うつもりなんかなかった。コンドームが手元にあったら、彼女とできてしまうからだ。最後の、北の欲求を止める理由が、抑制力がなくなってしまう。けれども、日に日に彼女への欲求が大きくなっていく。彼女に欲求を押し付けたくない。彼女のためだと、傷付けないためだと、思っていた。でも、北は思った。本当は彼女を傷付けて嫌われることが怖いのだ、自分を制御できなくなることが怖いのだと。要するに、自分のために逃げ道を残していた。そのことに気付いた北は、彼女と付き合うこと、これから一緒にいることを考えたときの、覚悟が自分には足りていなかったのだと思った。
「これからもずっと一緒に居りたいなぁ」
「……」
北の腕の中で、彼女は泣きそうになった。北の言葉は、何気ない愛情表現の言葉としては優しくて、儚いものだった。彼女は北の背中に精一杯腕を回して、力いっぱい抱き着いた。
「いるよ、ずっと一緒だよ。信介くんのこと、好きだもん。ずっと一緒」
「うん、ありがとう」
「ううん」
ありがとう、と言いたいのはこっちだと、彼女は鼻をすすった。
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