弐
最初尾白にとって、名字名前は其双子のような存在だった。今から売りに出される子羊のような顔をして彼女は新しい仲間たちの前に立っていた。耳を澄ましても聞こえない自己紹介、可哀想なほどまでに染まった耳と目尻、教師もそんな彼女に苦笑いをしてすぐに席へ座らせた。幼い頃から大柄だった尾白の隣へ彼女が並ぶと、より一層小さく頼りなさそうに見える。尾白は窓際の一番後ろの特等席にやってきた彼女に、なるべく優しく笑いかけた。
「俺尾白アラン。こんな見た目なんやけど、生粋の日本人やから英語とか、聞かんといてな。あ、でも古文とか得意やから、任せて」
「……」
彼女の目が尾白の方を見上げて、ぱちぱちと瞬く。彼女はぐっと眉間に皺を寄せて、泣くことを我慢するように唇をきゅっと結ぶ。そして、震える唇を開いた。
「ありがとう。尾白くんよろしくお願いします」
尾白の優しい言葉も、気遣いも全て彼女に伝わった。心細さを我慢していた彼女は温かな歓迎にすっかり気が緩んでしまった。尾白は彼女のぎこちない笑顔に、文字通り目が離せなくなった。彼女が移動教室に戸惑えば一緒に行き、関西の文化や言葉に戸惑えば、そこに交じって笑わせたり解説したり、気付くと尾白はクラス公認の彼女のお世話係になっていた。尾白もてちてちと生まれたてのひよこのように、素直に後を追ってくる彼女が可愛かった。一緒に居れない体育は大丈夫か、とまで尋ねる尾白は、クラスの女子総ツッコミを喰らうほど、彼女に対して過保護だった。彼女も、尾白が部活で学校を休むと面白いぐらいに落ち込んで、尾白への懐き具合に周りは微笑ましかったり、呆れたりした。
順調に思えた彼女の関西の生活も、夏休み前に一週間ほど風邪で寝込むことになった。新しい環境へのストレスと、疲労だろうと医者に言われた彼女は自分のひ弱さを嘆いた。早く尾白くんに会いたいという一心で、ベッドの上でうーんうーんと唸っていたら、尾白がお見舞いにくるというイベントが発生した。
「お、おじろくん」
「やっぱ、だるそうやな。これゼリーなんやけど、オレンジ平気やった?」
「なん、ぶか、つ」
「部活は休みやから、気にせんでええよ」
彼女は手くしで髪を落ち着けて、意味もなくパジャマを引っ張った。きっちりと制服を着ている尾白と対照的な自分がなんだか恥ずかしい。ベッドからおりて、扉の前で遠慮がちにしている尾白へ近寄った。尾白は起きたらあかんやろ、と彼女の髪に触れる。久々の尾白に彼女は目を潤ませて、尾白の制服を掴んだ。
「はやく、学校行くからね」
「おう。待っとる」
「うん」
尾白は穏やかに笑うフリをしながら、視線の場所に困っていた。着過ぎてよれたパジャマの胸元から見える、彼女の鎖骨がやけに眩しい。ぴょんぴょん、と自由に跳ねる髪先は可愛らしいのに、ふわりと香る彼女の甘さに尾白は戸惑うことしか出来ない。一つ下の双子のように可愛かった女の子が、夜な夜な一人でやらしい目で見ている境界へころんと転がってきた。彼女の無防備さは何とも言えない色気がある。名字は俺よりも小さくて、幼いはずなのに、「おじろくん」と呼ぶ唇が、掠れた声が、赤く潤んだ瞳が、こんなにも尾白の心臓を追い詰めてくる。
「おじろくん?」
「何もない、けど」
「ううん、ぼーっとしてた」
どうしたの?と彼女が首を傾げて、呆気なく彼女の肩からパジャマが落ちる。頼りのないキャミソールの紐が引っかかった白い肩がさらけ出されて、白く柔らかそうな胸が見えそうになった。尾白は慌てて、視線を逸らす。彼女はあからさまな尾白の態度に眉を上げて、下からじーっと尾白の視線を追いかける。
「尾白くん何でそらすの?」
「ちゃう、ちゃうねん、俺は何にも見てへん」
「……」
尾白の言動に彼女は意味が分からないと唇を尖らせたとき、彼女は自分の学習机に置いていたクリアファイルを手に取った。彼女が離れて、尾白はほっと一息ついて、彼女の小さな背中を盗み見た。膝上までのハーフパンツから伸びるふくらはぎの白さにくらりとする。あの柔らかい白いふくらはぎに触れて、掴んで、暴きたい。そんなさっきまで抱くはずもなかった欲望に尾白は自己嫌悪に陥りそうだった。自分はこんなにも、単純だったろうか。確かに彼女は可愛い。人としても、好きだ。でも、傍に置きたい、縛り付けたい、独占したい、なんて。
「あのね、お見舞いに来てくれた子が忘れものしちゃって」
「お見舞い?俺以外に?」
「うん、尾白くんと仲いい子だし、私の代わりに渡し、て……」
彼女は舌を噛みそうになった。強く引き寄せられた腕の中は味わったことのない温もりと、匂いで溢れていた。まだまだ膨らんでいる途中の胸の上に、遠慮もなく尾白の腕が回される。どくどく、とうるさい心臓までも尾白の腕の中に捕まってしまった。
「この格好でソイツと会ったん?」
「え?そ、そうだよ、だって、尾白くんもそうだけど、急に来るでしょ?着替える暇なんて、なっ、ちょっと」
「こないに無防備な格好しとったら、あかんやろ。変なことされんで」
尾白の聞いたこともない、低い声に彼女は無意識のうちに太ももをきつく閉じる。尾白の固い指先が彼女のキャミソールの肩紐に触れて、すぅーとなぞったと思ったら、その指先が胸元の方へと迫っていく。滑らかな肌触りに、尾白は喉を鳴らしてしまう。その生々しさに彼女は顔を真っ赤にして、尾白の腕を弱々しく掴む。
「へ、へんなこと?」
「こういうことや」
いつも慰めるように、可愛がるようにわしゃわしゃと彼女の頭を撫でていた手が、ねっとりと彼女の鎖骨をなでて、わざとらしく耳元で息をふきかけた。彼女は熱でふらふらしているのか、尾白の熱に浮かされているのか分からなかった。だ、だめと彼女は首を横に振って、叫んだ。
「だ、だめっ……し、しないもん」
こんなこと、あの子としない。
尾白の手がぴたっと止まって、尾白はだらだらと冷や汗を流し始めた。彼女の口から出てきた名前は彼女ととても仲のいい、女の子の友達だった。尾白は無意識のうちに、お見舞い相手だ異性だと、男だと決めつけてしまったのだ。その自分の気持ちに、身勝手さに、眩暈がした。俺は気付かんうちに、名字のこと好きやったんか。腕の中にいる彼女をぎゅっと抱き締め直して、尾白は項垂れた。置いてきぼりを喰らう彼女は尾白の太ももを少し抓る。
「いたっ、何すんねん」
「こっちのセリフだよ」
「うっ」
彼女の白い目に、尾白は視線を泳がせて唇をむぐむぐと動かした。彼女は尾白の腕から抜け出そうとするが、尾白の腕は彼女を捕まえたままだった。
「なぁ、名字」
「もう、なぁに」
「名字って彼氏おる?」
「いきなり!?
いないけど……」
「偶然やな。俺もおらへんわ」
「……な、なにが言いたいの?」
「俺と、付き合って欲しいんやけど。名字のこと好きやから」
「う、うそ、だ」
彼女は自分の気持ちに気付いていた。尾白が自覚するよりも、ずっと前から……いや、最初から好きだった。優しく尾白が笑いかけてくれたときから、彼女は尾白に夢中で、必死で後を追いかけた。『転校生』という肩書きの有効期間をだらだらと引き延ばして、尾白を独り占めしていたほどだ。尾白が可愛がってくれる理由も、躊躇なく自分に触れる尾白の気持ちも、彼女は分かっていた。だから、素直に尾白の気持ちを受け入れることが出来なかった。
「嘘やないわ。嘘やったら、こないなことしぃひん」
「んっ」
尾白に抱き締められると苦しい。好きと言われても苦しい。耳元で、熱く、好きだと繰り返される。脳みそがとろとろに、溶けてしまいそうだ。尾白に自分の気持ちはバレているんだろうか。バレているから、こんなにも強く迫られるのか。だとしたら、尾白アランという男は優しい顔をして、とても卑怯な男だ。
「なぁ、名字」
「す、き」
彼女が参ったように弱弱しく自白すれば、尾白の身体が震えて、今まで以上に彼女をきつくきつく抱き締めた。
「納得いかない」
「な、何がや」
気持ちを確かめて、晴れて尾白と彼女は恋人になった。恋人……恋人になった途端、自分から距離を取る尾白に彼女は目尻を吊り上げる。どうやら、先ほどまでの尾白は勢いだったらしい。彼女がじりじりと近づこうとする度に、尾白は彼女をベッドに押し付ける。「寝てなさい」「アランくんがハグしたら寝る」「あきまへん」「けち。ドケチ」「それでもええわ」そんな言い合いに疲れて、寝落ちした彼女に尾白は眉を下げて微笑んだ。前髪を払って、キスをひとつ。
「名前
寂しいから、はよ学校来てな」
もうすぐ彼女と毎日会えなくなる夏休みがやってくる。
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