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「あれ?名前唇切れてない?」
「え、本当だ。痛い」
「もー仕方ないなぁ。リップ塗ってあげるから、目を瞑りたまえ」
「え、ちょっと」
「ほらぁ」

 彼女は友達に顎を掴まれて、上に向けられる。じゃれ合いの一つだ仕方ない。大人しく目を瞑れば、リップクリームの感触がした。少し照れくさい。友達でも、この距離は照れくさい。息を止めてしまう。早く終わらないかと、そわそわしていると、カシャリと機械音がした。ぞっとする。慌てて目を開けると、楽しそうにニヤニヤと笑う友達の姿があった。その手にあるスマホに顔を青くする。

「ちょっと!」
「名前のキス待ち顔ゲット」
「消して、消してください」
「やぁだぁー」

 楽しそうな彼女たちの声に、木葉は一人で頭を抱えた。見てしまった。彼女の、キス待ち顔を。彼女の気持ちを知ってから二週間近く経っても、二人の関係性は何も変わっていない。木葉の噂も静かになって、見た目だけ平和だった。木葉は相変わらず一人で悶々としていた。彼女のことが気になって、仕方ない。目を瞑った瞼とか、まつ毛の長さ……、木葉の頭から離れなくなっていた。あ〜俺気持ち悪い。無理。そんな木葉の葛藤も知らずに、彼女は今日も教室の片隅で平和に笑っている。



「名字さん大丈夫?」
「あ、木葉くん」

 彼女は先生たちのお気に入りなのだろうか。よく物事を頼まれている姿を見る。デカい世界地図を両手で抱える彼女の姿に、ついこないだの噂を思い出した。彼女は変なところで止まった木葉に首を傾げる。

「あ、なんでもない。それ貸して、もつ」
「いいよ、大丈夫」
「だめ。女の子が重そうなの運んでるの見過ごせない」
「……」

 彼女は少しだけ頬を膨らまして、渋々木葉に地図を渡した。木葉は受け取って、やっぱりと眉を上げる。どっしり、と腕の中に来る重量感は女子にはキツイと思うのだ。でも、彼女はいつもと違って不服そうに、木葉の後へついて来た。木葉は静かな廊下を歩きながら、気まずさに我慢できなくなって、つい尋ねてしまう。

「名字さん何か怒ってる?」
「ううん、怒ってない」
「いや、さっきから……目が三角になってる」
「……うん、さっき木葉くんの言葉にちょっとムッとしただけ」
「え」
「力不足だって言われてるみたいだなって思って」
「え、あの」
「分かってるの。
 木葉くんがそう言うつもりで言ったわけじゃないって、分かってるんだけど」

 むっとするの。彼女は木葉から視線を逸らして、準備室の扉を開く。木葉は自分よりも小さな後頭部を見下ろして、もやもやした。だって、名字さんには重いだろうに。でも、俺もたまにある。バレー部の中で、木葉はパワーがないほうだった。よく力仕事と言うより、雑務や掃除の方が頼まれる機会が多い。あの、何とも言えない屈辱感を彼女も感じているのだろうか。木葉は彼女の意外な一面に親近感が湧いた。地図を置いて、腕を伸ばした。薄暗い準備室で、木葉は彼女の横顔を盗み見る。

 きゅ、と結ばれた唇はいつもより色付いて可愛かった。その唇に触れたいと、思った。もっと彼女のことが知りたい。どんな言葉に怒ったり、悲しいと思ったりするのだろう。クラスメイトでは知れないことを、知りたい。

 俺のこと、どう思っていますか。

「木葉くん」
「うえ、な、なに」
「唇切れてるけど、痛くない?」
「え、あ、本当だ」

 自分の唇を指先で触れると、ちりっと小さな痛みを感じて眉をよせる。彼女はブレザーのポケットからリップクリームを取り出して、首を傾げる。

「使う?痛そう」
「いいの?ありが……」
「?」

 木葉は彼女の手からリップクリームを受け取ろうとして、顔を真っ赤にしてしまう。だって、間接キスなのでは?木葉は不自然にリップクリームに触れたままで、動けなくなった。木葉の不自然さに首を捻っていた彼女も、木葉の赤い頬で理由が分かった。そして、彼女もつられて顔を熱くした。

「ご、ごめん、デリカシーなくて、えっと」

 彼女は指を引っ込めようとするが、木葉の手がそれを許さなかった。自分よりも大きい手に触れられて、好きな人に触れられて、彼女は泣きそうになる。眉をよせて困った顔で上目遣いをされて、木葉はどくん、と胸が苦しくなった。

「いや、嫌とかじゃなくて、名字さんはいいのかなって」

 俺と、間接キス嫌じゃないのかなって。言葉に出さずとも、間接的にそんなことを訊かれた彼女は首筋まで赤く染める。そんなの、決まってる。彼女はカラカラの喉に、唇の渇きそうだった。彼女が口を開く。静かで小さな、声だった。恥ずかしそうに、でも言ってくれた。

「いやじゃ、ない」
「俺も、俺も嫌じゃない」
「そ、そっか……」
「うん、借りてもいい?」
「ど、どうぞ」

 木葉はリップクリームの蓋を開けて、なるべく自然に唇へ塗った。彼女は何となく視線を逸らして、リップクリームが返ってくるのを大人しく待つ。生徒がたくさんいる校舎から離れた校舎は本当に静かで、互いの息遣いさえ丸聞こえな気がして、恥ずかしくなってきた。自分の、リップクリームを木葉くんが使ってる。使い続けて、丸くなったリップクリーム。そろっと視線を上にあげると、リップクリームが木葉の唇に触れていて、目の前が真っ暗になるかと思った。恥ずかしそうに目を伏せた木葉は色っぽく、男の子だった。

 小さくリップクリームの蓋が閉まる音がして、彼女は深く息を吐いた。

「名字さん」
「うん?」

 木葉は受け取ろうとする彼女の手をかわして、彼女の顔を覗き込む。さらり、と木葉の髪が揺れる。いい匂いがする。木葉くんの、匂いだ。真剣な目に見つめられて、彼女は顎を引いた。

「名字さんも、塗らないの?」
「え」
「俺が塗っても、いい?」

 何かに押されるように、ぐいぐいと来る木葉に彼女は顔を真っ赤にして、唇を噤む。「イヤ?」とずるい訊き方をされて、首を横に振った。木葉はほっとしたように笑って、彼女の顎に触れる。優しく顔を上に向けられて、彼女はぎゅうっと目を強く瞑った。唇には慣れ親しんだ感触がして、少し冷たい。下唇と、上唇に触れて、離れる。顎から木葉の指が離れて、目を開けようとした。前髪に何かさらさらとしたものが触れて、唇全体に柔らかい感触がした。上唇、と下唇ずつじゃなくて、一度に。びっくりして目を見開くと、視界いっぱいに木葉がいた。

「ん」

 彼女の声に木葉は勢いよく彼女から離れた。彼女はクエスチョンマークで頭をいっぱいにさせて、呆然と木葉を見上げた。木葉は真っ赤な顔を自分の腕で隠すと、「ごめん」と呟いた。そして、準備室から出て行ってしまった。


「え……?」


 言い逃げならぬ、キス逃げをされた彼女は自分の口を押えて戸惑うことしか出来なかった。


(バカか俺は!好き過ぎて同意なしで、キスするような男とか!おかしいだろ!最低だ!)


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