09.白花と雨音




 蒼の薄闇という夜の名残が世界を満たす夜明け前の数刻。
 吹きつける風はツンと冷たい雨の匂いを運んできた。暗い影を孕んだ雲がとぐろを巻いた大蛇の腹のように蠕動している。
 滑らかな鼻歌が静謐な森に響く。女は石造りの城門から顔を出すと、人がいないことを確認して足を踏み出そうとした――その時だった。
「早いわね、アスル」
 穏やかな語り口の女騎士がわずかに目を眇めながら城から出ようとするアスルを眺める。
 頭上に厚く蟠る雲より落ちてくる雨はあらゆる音を吸いこんで世界を静寂へと誘い、雫が降り落ちる音だけが奇妙なまでに際立っていた。
「ティアマトか……脅かさないでよ」
 振り向きざまに、あくまで穏やかながらも面白がるような笑みを称えるアスルに、ティアマトは苦虫を噛み潰したような表情になる。
「非常時に一人で出歩くのは危険だと砦に居た頃から言っているでしょう?」
「あはは……ごめんごめん」
 アスルは一輪の花をティアマトの前に翳して見せた。透き通った肌に、色素の薄い髪が揺れる。
「まだ、手向けの花を添えてなくてさ」
 ティアマトの顔に、微かな影が射す。無意識に花から視線を逸らしてしまう彼女には、何か思い当たる節があるらしかった。
「ねえ、アスル」
「なぁに?」
 これにアスルは無邪気な声で首を傾げた。
「……あの夜」
 聞き取れないほど小さな声で、ティアマトは問う。
「ん?」
「……いいえ、なんでもないわ」
 当の本人はまったく気付いていない。ティアマトはその言葉に少し安堵する。
 もう一度口を開こうとしたが、やがてかぶりを振った。
「どうしたの? 変なティアマト」
 疲れてるなら休まなきゃダメなんだから、と加えるアスルの姿を見つめながらティアマトは彼女のことを考えていた。
 ――団長にとって、彼女はどういった存在だったんだろう。
「……アスルは、団長を頼って傭兵団に入ったのよね?」
 さらりと自然に零された言の葉にアスルは静かに苦笑する。
「そうなの。あたしの母親が団長と知り合いで、あたしもそれが縁で団長と知り合ったんだ。うちの母親後先短くてね、身寄りがなくなったら団長のところに行きなさいって言われてたの。それで――」
「……貴方のお母さんと団長が知り合ったのって、いつの話?」
 ぱらり、と、雨が舞うのが際立った。
「なんでそんなこと聞くの?」
 にっこりと、“少女”は笑む。
「ねえ、ティアマト」
 凍てつくほどほっそりとした指が、自身の波打つ髪を救う。
「ティアマトと団長は、たくさんの時間を共に過ごしてきたんだよね。アイクやミストを支えながら、ティアマトは団長の隣にいたんだよね」
 彼女が手に持った花が囁けば、このような声を出すのかもしれない。風に乗って運ばれてくる少女の呟きは、ティアマトに一つの確信をもたらした。
「二人だけの秘密って、まるで宝物の宝石ようだよね。でもね、秘密が宝石のように見えるのは幻想でしかないと思うんだ」
 小鳥が囀るように、小雨が軋むように、少女の声が耳をくすぐる。
 ティアマトは息を詰まらせた。青空の睫毛に飾られた、獲物を捕らえた蒼氷の目が、からかうように、細められる。
「“宝石”はティアマトだけが持ってるものじゃないのよ」
 沈鬱な表情で少女を見据えた次の瞬間、彼女は本当にうつくしくなめらかに微笑んだ。
 ――その微笑は、揶揄に満ち満ちていた。
「……アスル。貴方は一体――」
 薄い紅をひいたティアマトの唇から、鈴の音のようなきれいな声が零れた。女は訝しげに目を細める。少女の穏やかな旋律に、侵し難い領域を見たのだった。
 見上げるように、アスルはティアマトの顔を覗きこむ。そこにはいつもの明るく無邪気な笑みが弾けていた。
「なんてね。あたしもティアマトと同じように自分のこと話すの苦手なの。だから、この話はおーわり!」
 はにかむように、甘えるように、傭兵団の雑用係は微笑む。
「じゃ、あたし雨がひどくならないうちに行ってくるね」
 少女の微笑みは、思わず口を噤ませる。ティアマトはもう何も言えなかった。
 アスルが遠ざかるにつれ、みるみるうちにより一層深い影に呑まれていく。
 二人の間には雨粒だけが落ちていた。



 雑音が続く。雨はやむ気配を見せない。
「おっはよー! アイクー!」
 アイクがそこに来るなり、先客はいつもの調子で笑んだ。
 彼女は、一つの墓の前に立っている。斧が突き立てられたそれは、目に映す度にこの場所に埋まる者が永遠の眠りについたことを知らしめる墓――そばには白くうつくしい一輪の花が添えられていた。
「アスルか。何をしていたんだ?」
「花をね、添えに来たの」
 アイクはアスルの隣に立ち、墓を見下ろした。
「……なんか、柄にもなく傭兵団に来た頃のことを思い出しちゃった」
「あんたが来たのは三年前だったか。オスカー達より少し先か?」
 思い出を懐かしむ言葉に、少女はひどく不思議そうに……それでもどこか楽しげに目を細めた。
「そうそう。ガトリーったら最初はあたしに首っ丈だったくせに三日で飽きたとか言ってきてさ。本当見る目がないんだから。そういえば、シノンは昔は何話しても全然相手してくれなかったなー」
 雨粒が顔を打つ。少女は目を固く閉ざした。瞼の裏に、ぼんやりと情景が浮かぶ。それは記憶の煌めきで少女を優しく包み込み、雨の冷たさを忘れさせるようだった。
「シノンに纏わりつくあんたは鳥の様に煩かったからな」
「失礼な!」
 アスルが小ぶりな唇をわざとらしく尖らせた。アイクは片眉を上げて共感を示しながら仄かに微笑う。
「アイク坊やもすっかり大きくなっちゃって」
「あんたが変わらないだけだ……あんた、俺と同じ歳なんだよな。本当に変わらないな?」
「愛らしさを保つために色々頑張ってるだけです〜!」
 他愛のない話をしている内に視線は再び父親の墓に戻される。
 戻らない者を、戻れない時間を、変わらない事実を突き付けるように降りしきる雨は蹂躙に近い。
「あんたとは、あれからきちんと話していなかった」
 アスルは僅かに目を瞠った。
「親父のこと、すまなかった」
 感情を押し殺した男の瞳がアスルを見つめ、ややあって彼女は首を横に振った。
「あたしのことなら気にしないでいいよ。別にへこんでなんかないしね。あっ、もちろん悲しんだよ? 顔に出ないだけで――」
「あんたはいいのか?」
 振り向いた彼女の眼差しにもアイクの表情に変化はなく、彼は淡白に続ける。
「親父はいない、出て行ってもいいんだぞ」
 澄んだ灰色の薄闇の中、アイクはほのかな困惑を滲ませる。瞼を落とし困ったような表情を浮かべるアスルの口許から風が微かな息をさらっていった。
「ぶー! なにそれ、あたしは邪魔ってこと?」
 少しして、アスルは頬を膨らませて怒りをあらわにする。
 咀嚼してそう解釈したらしいアスルにアイクが眉をしかめ、腑に落ちていないことを表明する。
「そうじゃない、ただ……あんたが傭兵団で気ままな生活が出来ていたのは親父のお陰だろう。これからはそうはさせてやれない。何より、こんな新米に命を預けるのは嫌だろう」
 唐突な言葉に、アスルはきょとんとして瞬きを繰り返す。心なしか俯いたアイクはその視線の先でゆるく左右の指を組み、確かに笑みの形ではあるものの、その印象において微笑とは受け取れない形の唇に疲弊のような諦観のような何かをかすかに醸し出した。
「誰がいつアイクに命を預けたっていうのよ」
 驚いたようにアイクが顔を上げる。
「もっと言うなら、団長にだって預けてないんだから」
 その理由は判然としないものの久々に話をする少女はやけに真摯で、アイクは口を挟むことなく流れるような玲瓏な声を聴く。
「いい? もしあたしが死んだら、それはあたしが不甲斐ないせいでしかないの」
 完璧な微笑を浮かべて、少女はひどく朗らかに言ってのける。
「……だが、あんたは戦えないだろう。戦えない奴を守るのも傭兵の務めだ。それが充分にこなせないのであれば、やはりそれは俺の至らなさ故だ」
「アイク」
 あおい双眸に、強い意志が宿る。少女は組まれた手の上にそっと手を重ねた。
 彼の指は少し汗ばんで、ひどく冷えていた。
「ダメだよ。ダメ。ダメなんだからね」
 彼女の手もまた、冷たい手だった。体温を感じさせない、人形のような手だ。だが、真綿のようにやわらかい。その心地よさが、温もりを生む。
 女は濡れそぼった少年に強く語りかける。
「自分を卑下して、あんたの願いは……団長の願いは、そうやってかなえられるもんじゃないでしょ。かなえたいなら、もっと必死に足掻かなきゃ」
 こちらに向いたアスルの両眼は、晴れ渡る蒼穹のように澄みきって、ひたむきだった。
「『今よりずっと。今のままではだめだ。今よりもっと』そういった人の欲望をあたしは肯定するよ。それで世界は動くんだから」
 そう言って、アスルは念押しの笑顔を見せた。
 その真剣さに、アイクは目をそらすことができない。
「……そうだな。今よりも――」
 アイクは体中が震えていた。寒いのではない。怒りほど真っ直ぐな激情でもない。
 欲しいのは力だ。欲しいのは、誰よりも強い心だ。そして守る。彼がそうしてきたように、己の世界を構築するすべてのものを――。
 一筋の風が、頬を撫ぜる。
「戻ろうか」
 骨まで冷えきった彼の手をとって、アスルは吐息で呟いた。
 見上げた隙間に太陽が落ちて、二人は目を細めた。空は一瞬で白い雲に呑みこまれ、視界には黒い染みが残っただけだった。