10.選択と戦場
陽光に月は透ける。明るく照らして希望を見せたところで、心に落とした影は晴れた日の蒼穹に昇る月のように、光に溶けて見えなくなる。
同情や慰めなど、そんなものだ。
所詮、悲しみを覆い隠す独善的な美しさに過ぎず、決して優しさなどではない。
“――死者はその者に流された涙の分だけ女神から安らぎが与えられるという”
「ふざけるな。死んだ後に安らぎなんてあるわけない」
耳障りの良い言葉を拒絶する。濁していいはずがない。濁せるはずがない。
起こったことは覆らない。投げた賽は戻らない。
……だから、悲哀も、憤怒も、悔恨も、全てを肯定する。
その果てにあるものが破滅を招くものだろうが、更なる強さをもたらすものには間違いない。それをこの世の誰よりも、何よりも知っている。
その在り方は決して正ではなく、さりとて決して正になれるはずもない。
――憎悪こそ我が力なのだと、誰かは言った。
「アスル!」
石壁に囲まれた一室。外には青褐の薄闇にぼんやりとした靄のような光がたゆたう。黎明時に比べればやわらかくはなったものの、朝露をもたらす大気が浸透する石壁からはほのかな冷気が滲んでいた。
悲痛な雨音と断末魔、剣戟と怒号の嵐に、椅子に座っていたアスルが眼を上げる。その傍らの手燭に炎は無く、手に持った鈍い光沢を滲ませる鉄の塊とともに、その女は事物の輪郭を蕩かすような淡い光に沈んでいた。
「アスル! よかった、起きてる……!」
澄んだ碧の目を細めながら、椅子に座ったまま、アスルは来訪者を眺める。早足で歩み寄るミストは、アスルの答えを待つことなく捲し立てる。
「一緒に来て! 今デイン軍が城の外にいるの! お兄ちゃんが『アスルを起こしたら皆でまとまって奥へ』って。だからアスルも――」
「外に、出る」
引こうとして伸ばした手をそのままに、ミストは探るように珍しくひたむきとしか形容しようのないアスルを見遣り、不安そうに眉根を寄せる。
「外って……こんな時にまでふざけないで! 外には沢山のデイン兵がいるんだよ!? それなのに――」
常なら可憐を自称とする女が、座ったままミストを上目遣いに絡め取った。せせらぎのような清涼さを纏う女の、その瞳だけが冷徹さを覗かせる。引き攣るように息を吸いこんだ音は、その先を紡ぐことを許されなかった。
「――そうだ」
アスルは表情を変えぬまま立ち上がった。
晴れた春の空のように清澄だった碧眼が、今は冬の空のように荒涼と、仄かな闇の中であおあおと燃えている。
重い靴音は空気を引き締め、海面に映る空色の如く艶めく薄蒼のウェーブが静謐に凍て付くように広がる。前にも見たことがある、まるでアスルであってアスルでない誰かのようだと、ミストは息を飲んだ。
一向に明るくなる気配のないぼんやりとした部屋の中で、数歩、アスルが歩を進めた。目前に立った、黙したまま声を落とそうと口を開く女と、ミストがぎゅっと瞼を閉じたのは、ほぼ同時だった。
「……そうだよ、全部団長のせい。勝手に死んじゃってほんっと無責任! 支え方なんてあたしには分かんないし、そもそもあたし養ってもらう側なんだけど!」
「……へ?」
ミストがゆっくりと目を瞠って碧と碧は対峙する。――そこに在るのはいたずらっぽく首を傾げた、からかうような挑発するような仕草の、いつもの女の姿。
「あたし、何が出来るわけでもないし? ただそこにいることで有り難みのあるグレイル傭兵団のマスコットですし?」
にこり、と、アスルが笑んだ。慣れ親しんだ笑顔を目にしたミストの肩から力が抜けてゆく。力なくぶら下がるミストの手を拾い上げ、やわらかさを帯びた目を向ける。
「……でも、力で為した方がグレイル傭兵団らしいと思うから。だから――」
アスルの笑みが深くなる。
蕩けるような微笑みが、あまりにも儚い。
「ちょっと助太刀してくるね」
アスルを見上げ、ミストは信じられないものを見るように彼女を見る。彼女は今まで頑として戦いの場を厭ってきたというのに、どうしてそうまでして戦場に赴こうとするのか。
ここで引き下がっては、もしかすると今生の別れになってしまうやもしれない――それは嫌だ、とミストは思う。
「な……、何言ってるの。アスル戦えないって……」
残響が静寂に融け切る前に、細く、ミストが息を吸った。気圧されているような困惑しているような、狼狽のようなものを滲ませながら、声を絞り出す。
「実はちょっぴりそれなりになんとなく戦えるような気がするんだよね! 昔は盗みとかやってたし!」
問いかけにアスルは一瞬だけ瞼をしぱたかせ、それから人差し指を口に当てて唇を微笑で彩る。
「またそうやって誤魔化して……! 絶対ダメっ。ダメなんだから!」
鮮血で濡れた外套が視界の端にちらついた。
音に成らないその言葉が、もう開かない瞼が。
握り締めた掌から零れ落ちていった腕が。
慟哭で部屋の空気を塗り潰し、見送るしかできなかった、あの日のことを。
意味も無く手が震えた。乱れる呼気に動揺して、ミストの指先は異常なほど冷たかった。
「アスルまで帰ってこなかったら、わたし……」
今まで苦しげに震えていた声は掠れて、咽喉の奥が詰まった様に息がし難い。潤んだ瞳の端から涙が零れ落ちる。
その言葉を、アスルはしばし真摯な表情で受け止めた。だがすぐに満足したように頷くと、静かに瞳を閉じた。
「大丈夫」
言って、指を立てていた手でミストの髪をそっと撫でる。
さら、と髪をゆるく梳かす。その感覚は優しくて、身体にその温もりが染み込んでくるようで、アスルがそのまま涙を掬うように頬を滑らせれば、ためらうような強さでその手を握り込まれた。
「なんたって、あたしには女神の加護があるんですからね!」
アスルの謳い文句はいい加減で、根拠など全くない口から出まかせであることは明白だ。
それでも、囁きを成した玲瓏な音律は澱んだ闇に一筋の希望のように舞い落ちる。
* * *
どれほど剣を振るっただろうか。
泥濘んだ土に足を取られる。思わず体勢を崩した瞬間、アイクの脇腹を熱が走り抜けた。
正確には、痛みが脳髄を揺さぶり、熱が爆発した。
剣の柄で突かれ、アイクは蹌踉めきながらも、必死に受け身を取った。
じくじくと広がる痛みと濡れそぼった前髪に顔をしかめると、視界の端で剣筋が光った。
――風を切る音がした。
剣を構え直すよりも早く、振り下ろされた刃が右肩を切り裂いた。咄嗟に回避行動をとったため傷は浅い……が視界の端が紅く染まる。
「よくぞここまで粘った! だが――!」
再び肉薄する殺気に、利き腕が追いつかない――間に合わない、はずだった。
“何か”が、眼前にいる敵の胸板を貫く。アイクの頬に血飛沫が降る。霞む視界に、意思を失って傾ぐ男の体が映りこんだ。
アイクはすぐに“何か”が飛んできた方へ振り返る。水のまろやかさと破璃の鋭さの境界にたゆたうような女が懐に仕込んでいたものを取り出していた。
……アスルが、敵を仕留めた。らしい。
「よしっ、命中!」
「アスル、お前なんで……」
隣に並び立った途端、アスルは不満そうに眉根を寄せる。
潤んだ風に、女の髪がふわりと踊った。
「一緒に戦うからお給金上げてよ? いや絶対上げてもらうから!」
アスルが理不尽な怒りを露わにする。何故彼女が戦場に出る決断をしたのかは分からないが、動かざると得ないと判断したくらいには切羽詰まった状況であることを見て取ったからなのだろう。
……それでも、些か無理がある。
「……お前、それで戦うのか?」
アイクは訝しげな目でアスルが握っているものを見据えて言った。
――諸刃の短剣など、暗殺に使用するなら兎も角、戦場においてはどう足掻いても正々堂々と戦うことに不向きな代物ではないか。
「これしか使えないんだから仕方がないでしょっ。文句言ってる暇あったらその傷どうにかして!」
癪ではあるが正論を突きつけられ、アイクは手早く肩に痛み止めの薬草をあてがい、長剣をかまえ直した。
たった二人の傭兵に対し、彼らを囲む敵はあまりに多勢だった。どちらからともなく、剣の柄を握る手がぎちりと軋む。
「いーい? あたしはあんたみたいなむさくて青くさい貧乏傭兵と一緒に死ぬなんてまっぴらごめんなの。せめて大陸中の王子という王子に求婚されるまでは死ねないんだから」
「……この大陸にはそんなに王子がいるのか?」
アイクは首を捻る。抱いたのは純粋な疑問。
「言葉のあやだっつーの!」
片目を眇めて、空いた手を伸ばす。ぺち、とアイクの頬を軽くたたいてアスルは不敵に笑う。
「まあ、でも。ここで死ねないのは一緒だから」
「……ああ、そうだ」
敵の出方を窺うように目を細めるアイクに、笑みを秘めていた声音が一気に鋭さを増す。
「指示を、団長。私のやれる範疇において、私に出来ることならば、全て貴方の望むがままに」
前を向いたまま、淡々と、女が言った。
荘厳を孕んだ昏さに沈むアスルの、蒼穹を蕩かしたような澄んだ目が、静謐と薄氷の怜悧さをもって敵を射抜いている。
その面差しが妙に気になって、アイクが声をかけようか逡巡した思考は――「あ」と、思い出したように漏れた音に遮られた。
「ちなみに、言っておくけど」
アスルは口元を強張らせ、面持ちを神妙なものへ染める。
そして、気まずそうに吐き出した。
「――あたしは、めちゃくちゃ弱い」