*とある神官の今際
ばらばらと激しい音がする。大きな水のしずくが、空の高いところから地上へと勢いよく降り注ぐ。間断なく響く、降下した地面の土を飛び散らせるほどの勢いを持った無数の雨粒の音。
――早く終わってほしい。
森林に身を隠し雨を凌ぎながら、神官は思った。
自分たちは決死隊だ。帰ってこなくともさして問題ではない、そう判断された者たちで編成された部隊。必要なのはガリア領に逃げ込んだ敵傭兵の首と、クリミアの姫の身柄のみ。
だが、神官は戦える術を持っていない。そして幸運にも、数の利はこちらにある。樹海に身を潜めてやり過ごせば、いずれ戦いは終わる。ガリアの半獣と遭遇しない限りはひとまず安全である――本当に幸運だった。
手を組んで、瞼を落として暫し女神に祈りを捧げる。ゆるりと瞼を持ち上げると、純白の服が緋色に染まっていた。一瞬、泥で汚してしまったのかと考える。だが、粘性のある緋色の液体がじわしわと侵蝕してゆくのをみて、ようやく自分が何をされたのかを理解した。
これは、自分の血。で、どうやら、刺されたらしい――。
「え――あああ、あああああ!?」
脳が認識した瞬間、痛みが押し寄せる。
ざくり、と土を踏む音がした。
「こそこそお祈りなんて、随分といいご身分じゃない?」
神官は恐る恐る顔を上げる――玲瓏な声でナイフを握っているのは少女とも形容できる年頃の女だった。
「それを言うならあたしもだけど……か弱い乙女に騎兵や重歩兵の相手は厳しいんだもん。適材適所ってあるしね」
大きくつくりの甘い碧の目には何かを愉しんでいるような色があり、小振りな唇は笑みのかたちにゆるく弧を描いている。
一瞬の安堵。少女ならばと神官は杖を握り締めて踏み出そうとする。
だが、女はすかさず握ったナイフを投げる。当たれば何処でも良いと言わんばかりの投擲は狙いを定めておらず、されど無慈悲に神官の右太腿へ突き刺さった。
「お、当たった!」
子供のように無邪気な声。放出する血と激痛に神官は仰向けに倒れこむ。杖が手から離れて女の方に転がる。
「戦うのは苦手なんだけど、弱いものいじめは得意なんだ」
ゆっくりと女は歩を進める。落ちた杖が蹴飛ばされる。女が足を一歩踏み出すごとに、場違いなほどに軽やかな靴音が響く。
「だから、一撃でなんて仕留めてあーげない」
そして女は神官の傍らで停まった。
神官の太腿に突き刺さったナイフを抜き上げ、雨で薄れた血溜まりに片膝をついた。
ばらばらと、細かい何かが高いところから打ちつけられるような音が空気を震わせる。それが何であったかが、曖昧になってゆく。
「これが運命だと女神に定められたなら」
女は地についていない方の膝を血塗れの神官の腹部にのせ、体重をかけた。小さな呻き声が聞こえる。荒い呼吸音。傷口は閉じることなく出血を続けている。
先ほど抜いたナイフを逆手に持ち、切っ先を神官の仰け反っている喉に置く。そして身をかがめ、神官の耳もとで囁いた。その目には酷薄なまでの怜悧さと、灼きつくほどの冷ややかさ。
「それを是とし、己は幸福だと逝けるのだろう? 君たちは」
神官はこの後自分が何をされるのかを察した。たまらず絶句し体を動かそうとするが、少女の細い脚はびくともしない。
ああ、女神よ。このように生を軽視し踏みにじる蛮行を嬉々として行う悪辣な賊にどうか天罰を――。
薄く開かれた神官の目は焦点が合っていない。痙攣が始まりかけている神官の肉体を、女は自分の体重をかけることで押さえつける。女の薄い色の髪が重力に従って下方に散り、髪先を血に染める。
「――あ、わーい。宝玉もーらいっ」
女の唇が、途端に明朗な音を弾けさせる。
手に持っていたものを投げ捨てて、貴重な資金源に頬擦りする。
「本当はお小遣いにしたいけど……今回は経費に回してあげましょう。借りは作っておかなきゃね」
神官の耳もとから唇が離れた。奇妙な圧迫感を伴って、耳障りな雨音が響き渡った。
神官の目から生の光が消えた。女のナイフが神官の喉を横薙ぎにして、そのすぐ傍の地面に転がっている。
「これくらいならこなせるけど」
ゆっくりと、女は返り血に濡れた上体を起こし、立ち上がって神官を見下す。
「……一撃でなんて仕留めてあげないって言ったそばからこれ? さっきの本当にまぐれなんですけど」
拗ねた子供のような口調で女は語る。神官の息はすでになく、虚空に向けた大きな独り言は――まるでいないはずの誰かと話しているようでもあった。
「ふふん。才能あったんだ、あたし」
屍体に背を向けて、女は上機嫌にステップを踏み出す。
宝玉を手に入れたと知らせれば、アイク達は有り難みを感じることだろう!
「さて、膠着状態に一石を投じて、事態に動きを生じさせるのは簡単なわけだけど」
どこか達観したように、愉快そうに、女は流暢に紡ぐ。
「膠着状態に一石を投じて事態に動きを生じさせたからといって、必ずしも事態が良い方に進むとは限らないんだよねぇ。少なくともあたしでは力不足なのでした」
そんな言葉を、手向けの花にして。