11.矜恃と信仰
「顔がこわ〜い」
蝶番を軋ませて戸を閉める。それを確認して、セネリオは灯りを吹き消した。
戦疲れからか、寝台までの短い道のりが遠く感じられた。だがそれも単なる疲労、さして問題ではない。
問題は、変容した部屋の空気と――寝台に腰掛ける女に他ならない。
「何の用ですか?」
迷惑だと隠さず態度で示してみせれば、彼女はたちまち愉しそうに唇に弧を描く。
声をかけられた少女――アスルが纏うのは、胡散臭さすら塗り潰す、たゆたうあどけなさ。
「心配になって様子を見に来たのに、あんまり邪険にされると傷付いちゃうなあ」
アスルは砦にいた頃から、時々ふらりとセネリオの部屋に現れては、他愛もない世間話を求めたり、じっとセネリオの作業を見つめていることがある。
いったい彼の何を気に入ったのかまったく謎だが、与太話でありながら底が見えず、肩に力が入る彼女との会話は、セネリオにとっては億劫でしかなかった。
「貴方の心配など無用です」
「ええ〜……」
退出する様子など微塵も見せず、アスルはふて腐れた様子で寝台に沈みながら、「月明かりだけじゃ暗ーい!」と明かりを灯す。燭火のさざめきが、極彩の光沢をのたうちまわらせた。
セネリオはその様子を眺めながら、眉間に皺を寄せた。……明らかに、好くない方向へ物事が進んでいる。
「まだやることがあるので、用がないのなら――」
「セネリオ君ってさ、ラグズが嫌いなんだね」
なんてことのないように、アスルは話を遮ってぼやいた。
それは先程ガリアの使者とセネリオの間で起きた諍いを意味しており、その時に垣間見えた感情への言葉でもある。
他意を感じたセネリオが、訝しむように答えた。
「寧ろ、嫌いではないベオクの方が少ないと思うのですが?」
「あたしは嫌いじゃないかな。別に嫌う理由がないし」
即座に切り返され、セネリオの青筋がわずかに浮く。
「今更博愛主義者気取りですか? 半獣など、手を取り合う価値もない。醜く獰猛、他種を蔑み、牙を剥き暴れ回るしか能のない獣そのものだ」
紅の瞳の奥で冷え冷えとしたまなざしは、まさしく氷そのものであった。
研ぎ澄まされたナイフよりも鋭い彼の言葉にも動じず、へえ、とそう言葉を続けて、アスルが鷹揚としか形容しえない笑みを弾かせた。
「――それは君の矜持? それとも意地かな?」
一呼吸に満たない空白。
空気が暗く、冷たく淀んだのは、その直後だった。
「……僕は何度も申しているはずです」
――我慢の限界だった。
震え上がる喉を理性で律する低い声。アスルは緩慢に身体を起こしセネリオを見上げた。
少年の表情は凍りついたように動かない。だが紅の色の瞳の奥底で、猛火のごとき激情が荒れ狂っている。怒りを讃えた瞳は、きらきらと煌めいている。
「貴方の、愛されて当然という面が嫌いだと。誘惑するような諭すような声が嫌いだと。全てを把握し掌握しているような態度が嫌いだと」
吐き捨てた言葉の冷たさは、思わずアスルが神妙に見据えるほど激しく、烈しい。
苛立ちに揺れる炎と、緩慢に眇められる薄氷がぶつかり合う。
睨み合うことしばし、薄い唇を割って漏れたのは、拍子抜けなほどに明朗な声音だった。
「――別に、好きでやってるわけじゃないもーん」
凍り付いていた部屋の空気が、ぱらぱらと崩れていく。
反射的に凍りついたセネリオの表情に反して、子供のように頬を膨れさせたアスルは、再び寝台に沈みながら言葉を置く。
「これはね、生に足る価値を示すためのもの」
半ばまで伏せられた瞼の下から覗く薄氷の瞳には強い色が在った。
感傷も感慨もないその色は、けれど一切の干渉を許さないまま、その意味を悟らせる前に消えてしまう。――もうこの話は終わりだ、とでも言うように。
故に、忌々しいとさえセネリオは思う。
「一体、何を企んでいるのですか?」
間を置かずして呟かれた言葉に、アスルはぱちくりと瞬きした。
「貴方の言動は、少なくともアイクに対して好意的なものだったから、不快でも目を瞑ってきました。ですが貴方が、アイクを利用し、何かを画策しているのであれば……」
唖然としぱたかせていたものが、言葉の根底にあるものを拾い上げた途端、呆れ混じりの困惑に変わる。
「貴方は僕の敵です。容赦はしない」
「だよね〜……」
これを聞いたアスルは片手で顔を覆って呻いた。いっそ嘆くような口ぶりでもあった。
「セネリオ君って口を開けばすーぐ『アイク』なんだから、本当妬けちゃう。……そうだなあ」
話を切り替えるように碧の瞳がすうっと細まり、笑いながらも鋭く冷めた光を宿す。
「セネリオ君は、矜持より大事なものをご存知?」
ふとアスルの声が凪いだ。見つめてくる焔色の瞳が静まり返る。
「信仰とでも言うのでしょう?生きとしいける全てのものが定められし、敬うべき世の理。自然の摂理」
紡がれる声の低さは、目の前の少年がそれらに対して思うことがあるのだとささやかながらに物語っている。
アスルはその様子をどこか他人事のように横目で窺いながら、不敵に答えた。
「創世神話なんて古いお伽噺だし、女神だって本当に存在して、本当に正しいのか分かったもんじゃない。何を持ち上げるにしても、何を排するにしても。見方によっては、虚言や戯言と変わらないんだもの。真の事象なんてどこにもないかもしれない」
何かを含むように少女が笑う。
「けれど、それがあたかも在るものであるように捉えられるのは、それに基づいて人が動くから。それを美徳……あるいは背徳と捉え、素晴らしいもの、ないし悪しきものだと見なして人が動くから。
あたし達にとっての“それ”が即ち女神であり、女神に夢を見ることこそが信仰であり、幸福」
それを見つめるのは含みのある何かを覆い隠す、鋭き瞳。
「……さて、何が言いたいのかというとね。あたしは夢は夢のままで。醒めずにずうっと夢を見ていたい。……そう願うだけなの」
――混沌と渦巻く感情を秘めた交錯。
「人は何かに縋るものを、信じるものをなくして生きていけるほど、強くないから」
物言いこそ謙虚だが、壮絶なまでに確信めいた、高き信念。人の本能に訴えかける何か。
……同じ人とは、思えないほどの、それ。
セネリオが黙って彼女を見下ろすと、見返したアスルはひどく無邪気に笑ってみせた。
「……だ・か・ら。悪いことを考えているわけではないのです。分かってもらえた?」
正直、この緩急のある態度には納得がいかないものの、彼女もセネリオがそう感じると解った上で言っているのだろう。
“暇つぶし”に満足したのか、にこにこと寝台から降りるアスルに、セネリオは言い放つ。
「僕は貴方に惑わされたりはしません。どんな理由があれど、アイクの障害となるなら――貴方は僕の敵です」
静謐な表情の中で、一瞬だけこみあげた、あまりにも純粋で透き通った温情。その一片を感じ取ったアスルが喉を鳴らす。
「そっか」
どこか残念そうに呟いたセネリオへの笑みは、いつも通りで。――いつも通り、嗤っていた。
「セネリオ君にとっての神って、いったい誰だろうね」
目を瞠る。体が、脳髄が、硬直した。
この一瞬で抱いた感情を表現する言葉を、セネリオは持ち合わせていなかった。
揺さぶられ、見透かされていることに対しての激情も、あらわすことすらかなわない。
「きみのかみさまを信じてあげてね。きっときみはそうするべきだから」
そうして彼女はすれ違いざまに言葉を零して部屋を去っていく。まるで同情するように、痛々しげに目を細めながら。
「……」
言葉もなく、セネリオは立ち尽くしていた。
――その時得た感情は、今でも深く覚えている。
ただただ厳しく、ただただ理不尽で、ただただ傷付けられるだけの、時には存在することすら罪だと蔑まれる、そんな世界。
手を伸ばし、指を動かし、唇を震わせて。
差し出された手がなければ、今でも世界は閉ざしたままだったに違い。
「……アイク」
忘れようにも忘れられぬ記憶。
あたたかさに心臓が震えた感覚は、今でも深く刻み付けられている。
差し出された手が、注がれる温もりが、骨の髄まで呑みこみ、染みこんでいく様は、まさに満ち満ちた幸福であった。
故に、例え信仰そのものだと、執心や依存だと揶揄されようと、セネリオのなすべきことは何一つ変わらない。
「……言われなくとも。僕の世界の全ては、貴方のために」
まだ一度として口にできない想いは、薄闇の灯火に掻き消された。