06.青猫と樹海




 アスルたちは走っていた。
 日差しが木々に遮られ森の闇は仄暗い。行く手に立ちはだかる木々を避け、枝葉を掻き分けて進む内、体のあちこちにうっすらと血のにじむ擦過傷を生みながら、波打つ春空の髪と外套を翻し、全速力で逃げていた。
 小さな痛みを感じながらも、心は急ぎ足取りは慎重に。未踏の地を手探りで進む模索は、精神的な重圧が大きい。
「もおおお! いつになったら王宮につくの!?」
 鼓膜が破れんばかりの声量で、アスルは叫んだ。
 泣きそうになりながら――ほとんど涙目だったが――必死に走る。
「ちょっと、アスル。あんまり大きな声上げないの! もしデインの人に見つかったら――」
「安心してミストちゃん、いざとなれば私が戦うから……」
「エリンシア姫もそう言ってるよ! 頼もしい限りで……あああ、お腹減ったあああ!」
「ぼく、オスカーお兄ちゃんのお弁当が食べたい……」
「そうそう、明日のご飯にオスカーが何を作ってくれるか予想しよう! 気が紛れ……るわけあるかァ!」
 入ったばかりのガリア領は、デイン軍の追っ手の庭も同然だ。逃げ回っていられるのも今のうち、仲間を呼び寄せて挟み撃ちにでもされたら袋のネズミである。
「あーあ、王子様のような美少年が現れて助けてくれたりしないかなあああ!」
「おい、おまえたち。止まれ!」
 甲高い問いかけがアスルのダダ漏れの思考を引きちぎった。息を詰め、足を止める。
 空気が変わるという感覚が如実に肌に伝わり、疲労から流れていた額の汗の温度が急激に低下していくのがわかった。
 喉がひりつくような緊張感。常闇の森を駆ける音が、場を支配する。
 ――にゃおん、と軽やかな猫の鳴き声がした。
 息を呑んだアスル達の眼前に映ったのは、数匹の巨躯な猫を後ろに従えた一人の青年だった。
 短く整えられた髪は、透き通るような水縹色だった。涼しげな眼光は緩く、洗練された力強い体躯だというのに少年然とした風貌が親しみやすさを感じさせる。
 だが何よりも目につくのは、ベオクとは違う種であることを表す、髪の色よりも濃い猫の耳と尻尾だろう。
 誰もが押し黙る中、エリンシアは彼の姿を油断なく見据えて言った。
「……ガリアの方、ですね?」
「そうだ。オレはガリアの戦士ライ。あんた達は何の目的でガリア領に足を踏み入れた?」
 興味深げに、青年――ライが問いかける。
「私は……エリンシア・リデル・クリミア。クリミア王ラモンの娘です」
「……」
 告げた名前は、ライの表情を渋いものにさせる威力があったらしい。
 無理もない、クリミア王に子供がいたという話は各国の王族を除き、一般には浸透していない話である。
「分かりました、貴方がクリミアの王女だという前提で話をしましょう。エリンシア姫、クリミアがどうなったかご存知ですか?」
 呑み込みの早い猫の青年は流暢に問いかける。
「……いえ。レニング叔父様が私を逃してくださってからのことは……」
「では、現在の状況を少し。二日前に、クリミア王宮にてデイン国王アシュナードがだした勝利宣言が流布しています」
「そん、な……」
 驚愕に弾けたエリンシアの声が、嘆くような響きを、悲鳴のように撒いていく。
 受け止めきれずに倒れこむエリンシアをミストとヨファが両側から支えて震える背中を撫でてやる。軽装に外套を羽織っただけの少女は、冷然と眺めていた。
「私は……確かに、公に認められた存在ではありません。証拠となるものも何一つ……」
 小さな姫君の背中は震えながら、支えられながらではあるが、折れずにまっすぐ伸びている。
 淡い碧と深い紫のまなざしに縋る思いでエリンシアはまくし立てた。
「ですが、皆様の力を借りて此処まで来ることができました。王宮から逃げ延びて、私を逃す為に命を懸けて戦ってくださった騎士の方々に報いるためにも……お願いします。カイネギス様に取り入ってはもらえませんか……?」
 ライはエリンシアと、彼女に支えるように寄り添う子供たちと、息を呑む少女を見つめ、目を細めたまま首を傾げた。
 小さい嘆息の後、ライがまず口を開いた。
「王は貴方の存在をご存知ですか?」
「各国の王族には、私の存在は知らされています。何より、父と……私を逃してくださったレニング叔父様は、カイネギス様は信頼に足る人物だと、そう仰っておりました」
 その言葉には説得力がある。ガリア王国カイネギスはクリミア国王ラモンと手を取り合い両国の国交を深めようと様々な取り組みを行ってきた。カイネギスがラモンに信頼を寄せるように、ラモンがカイネギスに信頼を寄せ、頼りにするのも道理であろう。
「成る程。事情は分かりました。しかし……デイン軍の手を阻みよく此処まで来れましたね」
「それは――」
 周囲に部下となるべき兵士も見当たらず、つまり――彼女たちは四人だけでガリア領に入ってきたことになる。余りにも愚かな行為だが、女子供が平然と行うには余りにも無理がある。
「横からごめんね。ちょっといいかな?」
 眺めていただけのアスルが、エリンシアとライの横から声を滑りこませた。不安を孕む鳶色の目と、怪訝さを滲ませるオッドアイの目を、蒼氷の目が受けとめる。
「そのことについては、あたしから説明するよ」
「アスル?」
 不思議そうに、ミストは目を瞬く。
「ほら、あたしが一番お姉さんだから」
 場を和ませるように緩く微笑んで、アスルは話を続ける。
「あたしたち、エリンシア姫の護衛を頼まれた傭兵団なの。此処にいるあたしたちは見ての通り女子供で戦えないから、姫と一緒に一足早くガリア領に入って来たんだけど……戦闘員の皆が追いついてこないんだよね」
 そう言ってアスルは国境の方角を見遣った。陽動を用いてデイン軍の猛攻を掻い潜ってはきたものの陽動で動いていた別働隊が合流せず、本隊を率いていたアイクは止むを得ず非戦闘員をガリア領へと先行させ、来た道を引き戻した――しかし、彼らが追いついてくる気配が一向に感じられない。
「姫様には証拠がないし、あたしたちも怪しく見えるかもしれない。都合の良いことばかり言ってるのは承知の上なんだけど……お願い、猫のお兄さん。まずはあたしたちの“家族”を助けるのに力を貸してもらえないかな」
「わ、私からもお願いします……! ライ様、私のことは後回しで構いません、傭兵団の皆様を助けてはもらえませんか?」
 嘆願の瞳に晒されたライは、軽く肩をすくめてみせる。
 しばしの黙考の後、猫の青年は面を上げた。
「デイン軍があんた達を追ってガリアとの国境付近を張っているということは、エリンシア姫を本物だと踏んでいてのことなんだろう。証拠はないが奴らが示してくれた」
 エリンシアを挟んで、ミストとヨファの表情が晴れていく。エリンシアは目を瞬き、そして、目を輝かせた。
「王宮への案内はひとまず後回しだ。俺の隊を派遣しよう。本隊と別れた場所まで案内してくれ。後は鉄の匂いを辿る」
「ライ様……!」
 心からの安堵にはまだ早かったが、あぁ、とだれのものか分からない感嘆が次々に洩れた。

 アスルは傍らに並んで歩くライを見遣った。涼しげに細められたその目は、国境付近の橋――先ほどまで抗争の形跡があった場所――を映している。
「ありがとう、かっこいい猫のお兄さん」
「おいおい、そんなに褒めなくても大丈夫だぞ? ライでいいって。あんたは?」
「あたしはアスル。ねえねえ、ライにゃんって呼んでいい?」
「いや……それはちょっと……」
「あはは、ライにゃんライにゃーん」
 蕾が花ひらく春の陽だまりのごとく、あたたかにうららかに、アスルとライは談笑する。そこに、不意にささやかな冷風が吹きこんだ。
「ライはあたしたちの言う事を信じてくれるんだね」
 ライは硬さで覆った碧と紫紺の目を、和やかな笑みに変えた。温厚さと快活さを併せ持つ好ましいものだった。
「信じないことには交流も築けないだろう。それが我が王の望みなわけだし」
 なんともない顔で言ってのけるライの声を耳元で掬って、アスルは気の抜けたような笑みを浮かべた。
「えへへ」
「なんだよ、急に」
「いい人だなって思っただけ」
 鳥の羽音が響き、鳥の群れが飛び立った。
 茂みの間を駆け抜けてきた風に押され、草の葉音に、呟きが紛れる。
「いい人すぎて、少し怖いかな」
 声が冷ややかさを帯びる。
 ライがアスルを見遣った。眉間を揉みながら、ライは声を放り投げる。
「まあ、そうだよな」
 鳥が飛び立った後の空を見つめていたアスルの目が、揺らいだ。気遣うように、やはりなんともないように言ってのけたライへと目線を落とし、口端を釣り上げた。
「やっぱり。いい人だ」