07.離別と月光
青褐を重ねた夜空はどこまでも果てしなく透明で、淡くゆるく鋭利さを増しゆく月明りに照らされた古城は宵闇に染まりながら静寂に沈んでいた。
闇が覆う石壁の廊下、追い縋るようにまとわりつく湿気を孕んだ大気を置き去りにしながら、ひとりの男が迷いのない歩調で靴音を響かせる。
デイン軍に包囲されたところをガリア軍の救援により難を逃れた傭兵団の、待機の間として使われている城。その一室の扉を出たところで目的の人物を見つけたアスルは、歩調を緩めることなく歩み寄るグレイルの、その逞しい手首を掴む。
そして、彼がその手に顔をしかめていることになどかまわず、アスルはそのまま手に力を篭めてその歩を止める。
眼を逸らそうとするグレイルにそれを許さず、アスルは正面から言葉をぶつけた。
「行っちゃダメだよ、グレイル団長」
この唐突な言葉に、グレイルは周囲に眼を走らせながらわずかに顔をしかめてみせた。
「あたし、戦争に巻きこまれたくなかった。姫様を助けて欲しくなかった。ガリアに来たくなかった。だから……子供みたいにいっぱい駄々もこねた。なんでかわかる? 全部全部、この日が来ることを恐れていたからなの」
淡々と紡がれる音律に潜むのは、呆れのような怒りのような感情のゆらめき。
怪訝さに揺れていた男の目が冷徹さを帯びる。それでも少女が男を見据える眼を逸らすことはない。
「ほう。それはまた、何でだ?」
「分かっているくせに、しらばっくれないで」
お互いの抑えた声音だけが響く。
「生き急いでいると、そう言いたげだな」
「そうだよ。どうしようもない愚か者さん」
その先に待っているものなど、知れているというのに。喉まで出かかったその言葉は呑み込んだ。
「そうだな、愚か者かもしれん。……昔からな」
男は目を伏せたまま女から眼を逸らす。闇を蕩かしたグレイルの褐色の瞳に開口部から差し込む月明りが映りこみ、煌きのような艶が生まれた。
「あいつは誰? どういう関係なの?」
囁きのような吐息のような音が、唐突に、問いを撒く。
「さあな。俺にもよく分からん」
「そんなの嘘。ねえ、お願いだよ。行かないで、団長」
わずかに顎を引いて俯く少女の、聞き分けのない幼子のような、平坦を欠いて揺れ動く声音に、淡い冷笑めいたものをグレイルは浮かべる。
「それは聞けない相談だな。一団員どころか雑用係でしかないお前の言うことなど――」
「聞いて、ガウェイン」
柔らかく澄んだ嘆願が、響いた。
口をついて出てきたのは彼の昔の――本当の名。
「行ったらもう、戻ってはこれない」
「そんなことは分かっている」
言いたくもない言葉は、なぜか後から後から浮かんでくるのに、聞きたくもない言葉は、なぜか簡単に手に入る。それでも、アスルには制止する以外の他の方法が思い浮かばなかった。
「まったく。……名は、お互い棄てただろうに」
アスルは何かを言いかけ、上目遣いにグレイルを見上げると、不意に、グレイルの腕が伸びてきた。
髪を撫でる彼の指が僅かだが小刻みに震えていることに気がつく。
「“アスル”」
グレイルの乾いた唇から零れたのは、玲瓏とは程遠い、かすれた音だった。
「お前は気の向くまま生きれば良い。だが、もし、気変わりしたのであれば……アイクとミストを支えてやってくれ」
剥がれゆく熱と、その瞬間から奪われゆく温さ。グレイルが刻んだ音律が意味することを理解したアスルが揺らぐしかない目を瞠る。
「やめてよ、そういうの」
あどけない否定はかすれた声となって霧散する。
「……あいつと再会させてやることが叶わなかった。その詫びとして今まで散々我儘を聞いてやったんだ。なら俺も一つくらいは我儘を言っても良いだろう」
「やめて」
「ティアマトの言うこともたまには聞いてやれ。あと、経費を無駄遣いするな。これは……いつも言っても聞かなかったか。私財で賄う俺の身にもなってみろ。まあ、それも終わりだ」
「ねえ、やめてよ」
「さよならだ。後は頼んだぞ、――“ ”」
無防備な幼さを纏う少女に、百戦錬磨の傭兵が浮かべたのは、父のような微笑。
アスルの淡い蒼に、外套を翻しながら踵を返し、迷いのない歩調でその場を立ち去る男の背中が映った。
「行かないで」
声のような息が零れた。
「行っちゃやだよ」
掴んだ手を振り払われたアスルの視界には、振り返ることなく去ってゆく男の背中。追い縋るように伸ばした腕の指先がグレイルをかすめるはずもなく、遠くなっていく靴音だけが反響する。
「行くな、ガウェイン……ッ!」
喉が裂けるような、慟哭めいた叫びが闇に渦巻いた。
◇ ◇ ◇
「あいつのことは……本当にすまない」
言われなくとも、どこかで気づいていた。
彼を責めることなど、これ以上もなく無意味でしかないことくらい。
そこに立つ彼が。そこで苦笑する彼が。
他の選択肢など用意されていなかったということに。
「改めて、グレイル傭兵団はお前を歓迎しよう。これからは、お前と俺の関係は団員と団長だ。団長命令には従ってもらう」
その目が見据える先にはいったい何があるのだろう。
彼が護ろうとするそれに、彼が護りたいそれに、もし言葉という形を与えるとするのなら。
おそらくそれは、重厚で堅固な、泥濘のように彼を呑みこむ、未来という名の毒にも似た手枷ではないのだろうか。
「だが、ここは今日からお前の家で、団員は家族だと思ってくれていい」
そう言って、彼は微笑った。この物言いに、彼がグレイルとして立っていてくれることをどうしようもなく望んでしまったあの日から。
――彼の為に“アスル”が為すべきことは、ただ一つだった。