09
フィリスにとってこの三年は、自分勝手にどこまでも、独善的に駆け抜けた時間だった。
己の信念の元立ち上がり、願いの為に心の赴くままに手を差し伸べた。
それは、この地に住まうラグズにとって、あまりにも無意味な行為であり。理解に乏しい振る舞いであった。
しかし、仮令その手を振り払われ、拒絶を繰り返えそうとも。嘲笑われ、愚弄や罵倒を受けようとも。彼女は手を伸ばすことをやめなかった。それが功を成し、彼女に心を開いたラグズも少なからず存在するが、費やした年数に見合う対価とは言い難い。それでも、彼女にとってはこの上ない喜びで、素敵な日々だった。
――変わり者だと、誰かは言った。
言われ慣れている言葉であった為さして気にも留めなかった。
――まるで自分を追い詰めているようだと、誰かは称した。
その通りだ。純潔の野ばらは、生まれた時より今の今まで清らである……その“事実”が許せない!
満足げに、彼らはその命をフィリスに差し出した。己の生き方を金で買われ決められてきたラグズ。彼らは生きることを諦めていなかった。彼の国に戻れば輝かしい人生が待っていただろう。絶望を乗り越え、彼女を希望とし、未来へ向かおうとしていたのに。
なのに、彼らは皆死んでしまった。
守られていたからその手が血に塗れていないとは思っていない。あの日、武器を手に家を棄てた日から。戦うと決めたその瞬間から、血に濡れたも同然である。
そして喜ぶべきか、足止めとして留まったのは彼ら自身の選択である。それもまた疑いようのない事実であり、その意思を汲んだからこそ、フィリスはガリアに辿り着いた。
けれど、一人残されたフィリスは理解してしまった。己の足が竦んでしまった時点で彼らが死ぬのは必然であり、覆すことの出来ない運命であったと。
彼らを盾にした自分がどうしようもなく愚かでわるい子なのだと思い知る。
――これは、夢と願いといった綺麗な言葉で着飾った、ただの罪滅ぼしだ。償って、罪を埋め合わせるのがこの地で課せられた己の使命だ。決して立ち止まれない。立ち止まることが出来ない。立ち止まってしまえば、彼らを救えなかったという事実に打ちひしがれ歩みを止めてしまいそうだから。
そうした己の感情との鬩ぎ合いに、他人の理解など必要ない。構うものか――。
だが、そんなフィリスを近くで支えてくれる存在があった。
明るい言葉に翳りが混じることこそあったが、選んだ道の危うさを案じる優しさに、何度救われてきたことだろう。
彼らを救えなかったことを涙が出るくらい後悔しているのに、それと同じくらいの歓びが心を支配した。励ますように頭を撫でられると、鮮やかで、華やかな気持ちが渦巻いた。淡い花が綻ぶような、綺麗な感情。
彼と共に在れるからこそ、悔恨に震える心はより強くあろうと形を変え、歩みを止めず進むことができる。
彼と共に在れるからこそ、フィリスはこの三年を幸せだと形容することができる。
だが、突如大陸に訪れた戦禍はその幸せを躊躇なく摘み取ろうとしている。血で血を流す暴力的で破滅的なその行為に、幸福が奪われようとしているのがどうしようもなく許し難かった。
……今度こそ、喪うわけにはいかない。
だから、フィリスは考える。刈り取られる前に刈り尽くすための、その方法を。
◇ ◇ ◇
黄昏時、ガリア領内に聳え立つゲバル城周辺は僅かな喧騒に包まれていた。
ベオクの小隊が、ぞろぞろと古城に足を踏み入れていく。その様子を、フィリスは少し離れた木陰に隠れ、慎重に様子を窺っていた。やがて静まり返る一帯を眺める少女の目には、密やかな決意に燃えていた。
一人の少年が城の門から出てくるのを確認し、時間の流れを押し留めていた堰を切る。
フィリスは愛馬を走らせ少年の背後に出ると、いかにもおそるおそるといった声音で少年に呼びかけた。
「……あの」
蹄が土を踏む音に、少年が剣を構え臨戦体制を整えながら弾かれたように振り返る。忙しなく瞬く瞳がフィリスを認めた途端、強張っていた面が緩んだ。
「子供、か……?」
「ごめんなさい、驚かせてしまいましたね。私、この近隣の村に住んでいる者なのですが、この城にベオクである貴方がたの姿が見えたので、気になってしまって……」
「いや、大丈夫だ。こっちこそ、デイン軍かと思って身構えてしまった。悪い」
フィリスは馬から降りて、笑みを取り繕う。少年は剣を収め、気を取り直すようにフィリスに顔を向けた。
ただ無造作に伸ばされた髪は、深い、深い、青さを保っていた。透き通るような青さではなく、静謐に、されど鮮やかに、燃え盛る――蒼く煌めく炎のような印象を与える、そんな少年だった。
「デイン軍、ですか? 貴方がたは一体――」
「どうした、アイク」
フィリスの紡いだ疑問と同時、野太い声が鏑矢のようにまっすぐ落ちてきた。視線をハッと城の門まで持ち上げると、そこには尋常ならざる雰囲気を纏う、荘厳たる男がいた。片手に握る大斧は、精巧にして重厚さを誇っていた。フィリスを見据えるその瞳の奥には、捉えたものを圧する威厳がある。
「そちらの少女は?」
気遣うようなまなざしは、それでいて厳めかしい。対峙することへの震えを、己を鼓舞し律しながら、フィリスはあくまで厳格に応じた。
「私、フィリスと申します。ガリアの村で、薬師の真似事をしております。外出中に貴方がたがこちらの古城へ入る姿が見えたので、気になって声をおかけしました」
いつもどおりの平坦な口調。男はほう、と納得したように頷いた。
「俺はグレイル。こっちは息子のアイクだ。クリミアで傭兵団を営んでいるが、訳あってデイン軍に追われガリアに来ている」
「デインとクリミアが戦争を始めたことは聞き及んでおります。先程のアイク殿の様子を見ると、デイン軍はガリアの国境の目前まで迫っているのですね」
「そういうことになる」
代弁者としてか、グレイルは一歩進み出るとフィリスに向かって手を差し出した。
フィリスはその手を取ると、冷然とした表情で告げる。
「此処でお会いしたのも何かの縁です。ご迷惑でなければ、貴方がたに薬草を提供させてください。必要ならば回復の杖を用いて負傷者の傷も癒せます」
「ほう、それはこちらにとっても有難い話だ」
だがしかし、その言葉の後にグレイルは鋭い視線で一瞥した。
「随分と気の利くお嬢さんだ。都合の良い巡り合わせだと勘繰ってしまうほどに」
思わず握り返した手に力がこもる。堂々たる面持ちの彼を前に、フィリスは碧の瞳を揺らした。これ以上詭弁を弄するなと言われているのだとわかった。
……やはり、嘘をつくのは難しい。睫毛を震わせ、フィリスは観念したように小さく首を縦に振った。そうすることしかできなかった。
「……本当は、差し出ましいのは承知で、国境警備に当たるガリア軍の力になれればと用意していたのです。彼らは、回復の杖を嫌いますので。……ですが、今は貴方がたに一番必要だと判断し、このような提案をさせて頂きました」
少女は笑うわけでもなく、哀しむわけでもなく、きゅっと眉根を寄せ、硬い声で言葉を重ねる。
「ベオクの身ではありますが、私だってガリアの民です。国が侵されるのを黙って見ているよりは、少しでも国にとって利になる行動をとりたいのです。それが貴方がたを助けることで叶えられるのであれば、手伝いたい」
グレイルの手に空いた片手を添えて強く握る。どのような表情をしていいか分からず、顔を伏せた。
「そうか。それはすまなかった」
グレイルが口を開く。気遣うような応えに、ようやくぎこちなかった体から力が抜けた。
「……なら、お言葉に甘えよう。どのみち、日が暮れかけてきている。あんたを守れるって意味でもこの城にいた方がいい」
顔を上げる。そこに浮かべた微笑を薄く広げる。
「うちは人員が足りない。頼りにしているぞ、フィリス」
「……はい!」
そう告げて、グレイルは他の団員に報告するべく外套をはためかせて城の中へと消えていった。――その背中を見送る瞳は、僅かな憂いを落としていた。
その背中から目を逸らせずにいると、「俺からも、感謝する」というアイクの声にハッと我に返る。
くるりと彼に向かい合った――そこには、ぼんやりとした黄昏に照らされた、爛々と燃える蒼炎。
「……アイク殿。こちらこそよろしくお願いします」
ああ、と頷いてアイクは己の手を差し出す。フィリスは迷うことなく、友好の証として差し出されたその手を両手で包み込んだ。
「今、杖使いが団員たちの傷を癒しているところだ。うちには杖を使えるやつが一人しかいない。回復の杖が使えるのなら、その手伝いを頼みたいんだが、いいか?」
「承知しました」
やんわりと促され、フィリスはアイクに続いて城の門をくぐる。小さな棘のような罪悪感が、ちくりと胸のどこかに刺さっている。
継ぎ接ぎだらけではあったが、彼らに受け入れてもらえたのは僥倖だった。
此処にいればどのような形であれ、少なからず彼の存在を感じられる。それがフィリスには堪らなく嬉しい。
さて、この後どうするべきか――今はまだ、考える段階だ。