08
「フィリス?」
久しぶりに顔を合わせた青い色彩の大男は、相変わらず優しく穏やかな風貌で彼女の名を呼んだ。
家屋を空け、フィリスは村の外れに向かっていた。深く草が生えた森の入り口には夕暮れの気配が漂い始めていた。
「おオ、やっぱりフィリスダ」
「モウディ」
獣牙の戦士であるモウディは、反ベオク感情が根強いガリアにおいてフィリスの少ない理解者の一人である。虎の獣牙族に相応しい筋骨隆々な巨躯は全身鎧のような頑丈さを持ってして敵を退け、ゆったりと動く腕の動きすら力強さがあるが、その実態は森で動物と戯れるのが好きな心優しい戦士である。フィリスは彼と陽だまりの下、リスや兎を膝に乗せて話を交わすのが好きだった。
しかしガリアの戦士でありライの部下であるモウディもまた、国境の警備に向かうのだろう。
清冽な森を背に、フィリスはモウディと向き合った。
「ドこへ行くんダ?」
モウディの問いにフィリスはどこか渋い微笑を取り繕った。
「……少し、薬草を調達しに行こうかと思いまして」
そう言いつつ、フィリスは手に持っていたものを背に隠す。幸運にも、天然な性格のおかげでモウディは気付いていない。
更にモウディの意識を逸らすために、彼女は思い出したかのように話題を転じた。
「ライから聞きました。クリミアとガリアの間で戦争が始まり、ライの部隊は国境の警備にあたると」
じぃっと覗き込んでくる赤褐色の瞳に堂々と向き合った。モウディの無垢な眼差しに、少しだけ罪悪感を感じる。
「ソうダ。モウディはその前にフィリスの様子を見てクるよウ、ライに頼まれタ。ダから、フィリスの所に行こウとシていタ」
「フィリスの、ですか?」
ほんの少しだけ可愛らしく小首を傾げながら、フィリスが尋ねた。
「ライが、とても心配していタ。フィリスをシばらく一人にしテしまウと。だガ、ライはとても忙しい身ダ」
モウディの言葉に、フィリスは重みのような孤独を感じた。寄辺のない己の事をそこまで気に掛けてくれるライの優しさは、もうそこにはない。
「モウディも、フィリスが心配ダ。ダから了承しタ」
小休止でもするように息をつき、モウディは孫娘でも見守るかの様な慈しみめいた目で少女を見つめる。
「ライとモウディくラいダったカらナ、フィリスを気にカけてやレるラグズがイなくなっテしまウ」
白い頬に、逞しい指が寄せられる。モウディの心根をあらわすようなあたたかさに、胸が締め付けられた。
「フィリスは良いベオクダ。ソレを未だニ獣牙の皆に分かっテもらえナイのが、悲しイ」
「……モウディ」
モウディはしおらしく黙り込んだ。それが嬉しくて、フィリスは小さく笑った。
「ありがとうございます。モウディがそう言ってくれるだけで、フィリスはとても幸せです」
黄昏と宵の狭間を照らす鮮烈な赤に包まれて、語りかける少女の笑みがゆったりと深くなる。
「共に在ることとは、当たり前のようで当たり前ではないのかもしれません。互いが互いを気にかけ思い合う、そんな奇跡が起きたからこそ、今フィリスは此処にいれるのですから」
ぱああ、とモウディの表情が明るくなる。吐息のような微笑で、彼女は優しい彼に笑みを送る。
「……アあ、その通りダ! モウディは、フィリスと出会わせてクれた女神に、感謝シてイるゾ!」
「はい、フィリスもです」
ぎこちなく片手をモウディの手に添え、フィリスは己の理解者にささやいた。これ以上の心配をかけまいと、くすりと微笑んで。
「モウディ。気にかけてくださってありがとうございます。どうかモウディは自分の仕事に戻ってください」
あまり時間を掛けさせてしまえば、合流が遅くなったモウディが怒られてしまう。そう判断しフィリスが会話を切り上げようとした瞬間、第三者の声が鋭く斬りこんできた。
「――モウディ!」
突如響いた声に、フィリスはハッと目を見開いた。ちりん、と、狼狽えるモウディの向こうで玲瓏な鈴の音が鳴った。
険しいまなざしでフィリスを睨んでいるのは、彼女とそう年の変わらぬ風貌の少女だった。しかし、可憐な貌と女性らしさを残しながらも引き締まった体躯は戦士のそれである。彼女の姿を目にしたフィリスは、静かに息を呑んだ。
「レテ」
「まったく、何処をほっつき歩いているのかと思えば……」
モウディがレテと呼んだ少女は、年端もいかぬ少女には似合わない、灼々とした眼光でフィリスを射抜いた。刺々しい敵意を露わにして、小さく鼻を鳴らす。
「ふん、守られるだけの痴れ者が。お守りがいなくなるんだ。精々酷い目に合わぬよう立ち回るんだな」
皮肉めいた声音の奥底に潜む憤怒に、フィリスは困ったように口角を釣り上げてみせるだけだった。モウディがたまらず制止に入る。
「レテ。その言い方はヨくなイ。ライや王に言いツけてモ良いんだゾ」
レテの眦にカッと火が散った。一対の菫が燃え上がる憎悪に照り輝く。
「うるさい! 元はと言えばお前がいなくなるからだろう! さっさと行くぞ!」
背を向けたレテが森へ姿を消したのを確認して、モウディは申し訳なさそうに頭を下げる。
「フィリス。レテが酷いコとを言っタ。モウディが代わリに謝る。スまなイ」
「大丈夫です。モウディが謝ることではありません。レテ殿の言うことも、間違っていないので」
大男の繊細でやわらかな謝罪に、フィリスは苦笑した。静かに穏やかにそこにわだかまる感情は、拒絶への哀しみではなく、むしろ、相手への尊敬と思慕のようなものだった。
「マた、落ち着いたラ、様子を見にクるからナ」
「ありがとうございます。気をつけて」
もう一度森林より彼を呼ぶ声に、脇目も振らず森へと向かうモウディを見送りながら、少女の喉が微かに動く。
「間違っていないのです。私は間違いなく『しれもの』ですから」
……実に不思議な縁だ。気付いたら彼は彼女の傍にいた。
それが当たり前になって、もう、彼がいない世界は考えられない程になっていたのだ。
――こんなにも彼を繋ぎ止めていたい。
夕暮れの炎が鮮やかに天を、緑の大地を染めていく。潤んだ風が少女の風を巻き上げ、剥き出しの頬を夕陽が縁取る。
背に隠したものを瞳に映して、彼女は知らず嗤っていた。
「奇跡を奇跡で終わらせるつもりは、毛頭ないのですよ」