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 外から古城へ、すすり泣くような風の調べが雨の訪れを告げていた。
 風に散らされた髪を撫でつけ、すっかり乾ききった両目を瞬かせる。ひりつく視界の中雲行きは怪しく、木々のざわめきもどこか遠い。
 ――妙なことになった。
 フィリスはふぅ、と溜息をついた。
 肌の上を滑る生暖かさに眉を顰めながら、思考をまとめようとする。
 傭兵団の長であるグレイルが命を落とした。
 一体何があってこうなったのか、未だにフィリスは把握しきれていないのだが、どうも昨晩古城の外では何かが起こったらしい。
 当然ながら、団員たちはその報せに涙した。キルロイとフィリスの治療も虚しく、悪夢を事実として突き付けられたミストの慟哭は、皆の色を失わせるほどのものだった。……今こうして、窓辺にて一人ぼんやりと外を眺めている自分が場違いだと思えるほどに。
「大切なものを、喪ってしまったのですね」
 もう少し歌や舞踊の嗜みがあったら、この場で元気付けれる曲でも披露できたのだろうか、としみじみと胸中で呟く。生暖かい感覚がどうしても馴染まない。恐らくは身体ではなく、心に。
 ……未だに、墓標の前で泣いているのだろう。彼女は。
 哀哭に肩を震わせるミストの背が脳裏によぎった。それは物悲しく胸腔に響き、微かに瞼を伏せる。
 この場にいる者の気持ちを代弁するかのように響いていた泣歌の音色は、無情に過ぎる時間ですら何もかも彼方へ押し流し、未だがらんどうだけを残していた。
 哀しみとは、心に深く刻むための針であってほしいとフィリスは思う。いつかは抜け落ちて傷が塞がるから前進することができる。傷跡が残るから忘れることのできない記憶となる。……少なくともそう考えている。だが、そこに敢えて私情を挟むとするならば――。
「……笑っている方が絶対いい、その台詞をそのまま返したいです」
「そうね、本当に」
 独り言に返ってきた返答に振り返る――この城にて落ち着きのある話し方をする女性を、フィリスは一人しか知らない。
「ティアマト殿……」
 ぎしりと戸の軋む音と一緒にティアマトがやんわりと笑みを刷く。
「ミストにはアイクがついてるから、大丈夫よ」
 次に続く言葉を言い繕おうとして――フィリスは唇を引き結び、胸の奥をゆるゆると締めつけられるようなやるせなさを呑みこんだ。声をかけ、同情を示し、気遣ったところでどうにかなるものではない。彼女にしてやれることなど、フィリスには何一つないと理解しているからだ。
 フィリスが視線を下げて柳眉を曇らせているとティアマトはフィリスの横に並び立ち、ふわりと一つ笑った。
「どこか嫌な天気ね」
 木立を縫って響く物悲しい音は、まるで森の精たちが輪唱しているかのようだ。淋しく不気味な風鳴りは、大気を震わせて大きく大きくなっていく。
「……そうですね、明日あたりに一雨来そうです」
 フィリスが仄かに苦笑しながら言葉を返すと、ティアマトは軽く肩を竦めた。ふと、翠眼がガリアの森を見下ろし、切なげな線を引いた。
「……ごめんなさいね、フィリス。こんなことになって。関係のない貴方を巻き込んでしまった……」
 ティアマトは事態の深刻さを認識するように、重々しい表情で口を開いた。
 苦悩に満ちた声に、フィリスは静かに首を横に振って、感情が掴みにくい横顔を窺いながら眉尻を下げる。
「謝らないでください、ティアマト殿。私が此処にいるのは、私の意思なのですから」
 揺るぎないほど穏やかな声は、ティアマトの感傷は余計なものだと言外に告げていた。沈黙するティアマトと向き合い、フィリスはやわらかく両目を細める。
「あの、ティアマト殿さえ……傭兵団の皆さんさえよろしければ、もう少し此処に居させてくださいませんか?」
「え?」
「滋養の食事程度なら持ち合わせの食材でご用意が出来ます。予備の杖もご用意しておりますので、いざという時の迅速な治療と怪我の経過観察は抜かりなく行い、皆さんを万全な状態で送り出せるよう努めさせて頂きます」
 フィリスの提案に、ティアマトはしばし考えこんだ。
 その提案は、確かに傭兵団にとって有り難いものだった。だが、デイン軍と再び交戦するやもしれない、グレイルを喪ったばかりで防備の薄くなった傭兵団に、ミストと年の瀬の近い少女を置いておくとなると、話は別だ。この状況下で、守りきれるかどうか――。
「……なんて、言い訳がましいですね。本当はこのまま帰りたく無いのです」
 行き詰まっていた思考を察知したように、フィリスが素直に告げる。
「このまま帰って、貴方がたの身に何か起きたら……きっと一生後悔する。ならば、例え危ない目に合う危険があろうとお側にいたい……こんな自分勝手な理由ではありますが、いけませんか?」
 ティアマトは諦念を漂わせ、わざとらしく息を吐いた。フィリスの頑なな表情に、状況も相まって言いくるめられたと思うことにした。
「……じゃあ、お言葉に甘えるわ。頼めるかしら?」
「……はい! お役に立てるよう頑張ります」
 これが良い選択であるのかは分からない。ただ、正しい、正しくないではなく、失ったものはあまりにも大きく、少しでも、少しの間でもその穴を埋める必要があると判断した、副団長としての答えだった。だが、後悔している暇もない。何より、自分よりも若い少女からの、不器用ながらも精一杯の気遣いを、ティアマトは無碍にすることが出来ない――これで、いいのだ。
「……ありがとう、フィリス」
「……いえ」
 その返事は妙な響きを帯びていた。緩く吹いた風が、フィリスの頬から口元へと髪を運ぶ。
それを払って形作られた仄かな弧は、穏やかに伏せられた睫は、どこまで静謐だった。



◇ ◇ ◇



 静かな夜だった。
 肌を撫でる風はねっとりと絡みつくように重い。
 ゲバル城の見張り台から見上げる空はあまりにも広く――たったひとり、果ての無い上を目指して昇ってゆくのは途方も無く、さみしいことのように思える。
 ……されど、流された涙の数だけ女神から安らぎが与えられるのであれば、その果てに迎えてくれる者がいるのであれば、辛くはないのかもしれない。
 離反という名の断絶を痛感し、それでも、新たな縁と出逢いがあった。アイクは夜空を見上げながら、心に浮かび上がった決意を握り締めていた。
「親父……」
 思わず漏らした呟きを、背後に立ったものが聞き咎める。
「アイク殿」
 甘やかで透き通るような声にアイクは振り向いた。
「フィリスか。あんた、残ってくれるんだってな。ティアマトから聞いた」
「はい。お世話になります――アイク殿も、決められたのですね」
「ああ」
 アイクの睫毛がほのかな光を弾き、夜の闇を孕んだ瞳がフィリスを見つめる。そのまなざしに、眸の奥に“在る”ものに、フィリスは不意に理解した。
 それは、グレイルの息子である彼が新たに団長の座に就くと決めたということ。
 喪ったものがあって、選択を迫られていた中で、彼はそれを迷うことなく選んだ。人生の選択を、進むべき道を。
 迷わないということは、誰にでも出来ることではない。きっと――今の彼は微塵も思ってはいないのだろうが――立派な団長になる。そんな予感めいたものが胸に疼いた。
「……それ、何の匂いだ?」
 ふとアイクは奇妙な匂いを感じ取る。
 不審な様子のアイクの顔を覗きこみ、フィリスはかすかに眉を下げた。
「苦手ですか?」
 小首を傾げて揺れる髪から少女特有の甘い匂いがふわりとこぼれる。謙虚で落ち着きがありながら奥深さと品格を纏う、そんな芳しさがあった。
「そうじゃない。不思議な匂いだと思って」
「精神疲労や憂鬱に作用する薬草です。気休めになればと少し焚き染めたのですが……どうやらアイク殿には不用でしたね」
 さりげなく、やわらかい。けれども茶化しているのだと気付いたアイクが少しだけ顔をしかめながら言った。
「薬草だの匂いだの、俺には違いがさっぱりわからん」
「ふふ、薬草は生薬として使用するのはもちろんですが、香料治療もできますし、加工をすれば使用方法は多岐に渡ります。ガリアでは耐暑性が弱いものは育てられないのですが、自分で栽培するのも楽しくて好きなんです」
「あんた、回復の杖も使えるだろう。杖を使った方が手っ取り早いんじゃないのか?」
アイクの問い掛けに、フィリスは首を横に振って淡白に続ける。
「確かに、回復の杖を用いた方が即効性がありますし、それで救える命が少しでも増えるのは嬉しいことです。けれど、己の知識と腕で治療を施すというのは、杖を使用した治療とはまた違った嬉しさがあるんです。それに、救えるための手段は多ければ多いほど良いと、私は思っております」
 治療とはいのちのたたかいであり、そのたたかいに勝つために手段を選んではいられない。
 ……それは例え真似事であっても、薬師としての、杖使いとしての誇りだった。
「……大したもんだな、あんた」
 素直すぎるほどの敬服の念を込められた返答を、フィリスはやんわりと受け入れる。
「――種は、蒔いておきたいので」
 妙な感情の籠もった呟きが少女から漏れた。白皙のかんばせがどこか翳りを見せる。肌の白だけが夜の闇にひどく浮いて、隠されたそのまなざしの色を窺い知ることは叶わない。
「種がどうしたって?」
 耳聡く聞きつけたアイクが目を剥いてフィリスの言葉を反芻する。フィリスは瞳を滑らせ蒼の薄闇を重ねた宵闇を仰いだ――まるで逃げるように。
「いえ……その、アイク殿は、貴方自身が種であるのでしょうね。きっと貴方はグレイル殿が撒いた種、託した願いなのだと思います」
「?」
 夜を見つめる目を縁取る睫毛が、あどけない頬に影をおとす。アイクの鼓膜を、穏やかな囀りがふるわせる。
「昨日、ミストとキルロイ殿から傭兵団の……お二人のお話を聞いた時に、そう思ったんです」
 頭の中に本が浮かぶ。頁を捲ると、昨晩の談笑の記憶が広がった。ミストが話す、少年と呼ぶにも幼かった子どもの頃のアイクと、まだ健在だったグレイルが、低く掠れた声で息子の将来を予感させながら厳しく稽古をつける思い出の欠片……その共有。
 それは奇しくも、墓標の前でアイクが瞼の裏に思い描いていたものでもあった。
「例え明日、その身が朽ち果てようと……種を蒔いておけば、芽吹いて、咲きます。可能性は無限であれ人がひとりでうみだせるものには限度があり、だからこそ人は次に繋げたいと願うのだと、昔ある人に教えてもらったことがあります。
終わると言うことは、始まりを意味しますが、それもやはり、絶やしては始まらない。心がなければ枯れるだけだと」
 ――語られる言葉を聞きながら、アイクは包帯を巻いた掌に視線を落とした。力の入りっぱなしな拳、その表皮はじくじくと鈍い熱を帯びている。己が未熟である証。喪ったものが事実である証。
 運命は変わらない。痛みや苦しみが消えるわけでもない。――それでも、人生をどう生きるのか……それを決めるのは己自身。
 そして、自分が求めるものは、きっとこの足で歩き続けた道程の先にしか見つけられないのだ。
「それなら大丈夫だ」
 アイクは頷いた。力強く、迷いなく。
「ここで絶やす気は、更々ないからな」
 声朗らかに告げるアイクに、フィリスは目を細めてそっと笑った。
 ――彼という人間の端緒を掴んだ気がした。
「……素敵な傭兵団になるといいですね」
「なるといいじゃない、するんだ」
「デイン軍がガリア領を侵し迫っている今、まずは明日を拓かねばなりませんが」
「あんたな……」
 未来を生きるよりは余程可能が高い状況に気付き、突き付け――それがなんだか可笑しくてフィリスは小さく笑い出した。
 アイクも合わせるように限りなく苦笑に近い笑みを形作り、消え入りそうな笑い声は夜空に溶けて消えていった。


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