12
窓から見た先の世界は、朧げで何とも曖昧なものだった。
靄はゆるやかに流動し、大地そのものである枯れ草と土が、降りしきる水滴に濡れている。森は相も変わらずきらきらしい緑に溢れているが、潤んだ空は無彩で鋭い陽を遮るだけでは事足りず取籠めていた。
何とも目覚めの悪い朝だ。……それで済んだのならばどれほど良かっただろう。
「決死隊を投入するのは予想がつきましたが、流石に早すぎますね」
窓から雨粒が吹き込む。傭兵団の参謀――セネリオはどこまでも冷静だったが、窓の外、視線の先にはデイン王国軍一個小隊が古城を取り囲むように陣を張っていた。
まず、兵力で劣っている。質はともかくグレイルを喪いシノンとガトリーが抜けた、というのはやはり拭いきれない不安がある。対して、相手は決死隊と言えど国の正規軍――普通にぶつかれば、まず敗北する確率が高い。戦力差が圧倒的すぎる。
「それでも――やるしかない」
アイクの言葉に対し、否定的な言葉や意見を投げるものは一人もいない。負けが見えている絶望的な戦いであろうと、抗い、覆さなければ明日はない。
「食らいついてやるさ」
団長である彼に動じた気配はない。迷う様子もない。
――故に、フィリスも迷うことなく決断した。
「アイク殿」
少女に不釣り合いな厳粛さを帯びた声が高らかにその名を呼ぶ。
「フィリス、あんたはミスト達と一緒に隠れ――」
「私を、グレイル傭兵団に入団させてください」
アイクはしばし茫然とする。アイクだけでない、対策案を構築していたティアマトとセネリオの視線がフィリスに集中した。
突然告げられた言葉の真意を量ることなどできるわけもないが、さすがにその提案は無茶がすぎる。
アイクは肩を竦めしつつ指摘した。
「あんた杖使いだろ? たしかに杖使いは貴重だが……」
「杖しか使えないと申した覚えはありませんよ」
――どさりと、フィリスがどこからともなく取り出した本が卓の上に置かれた。その本が何たるかを理解したセネリオは好機だと言わんばかりに問い掛ける。
「魔道書ですね。馬を駆って此処まで来たと聞いていますが、騎乗して戦えますか?」
「はい。残念ながら雷の系統しか扱えず鍛錬だけを積んできた代物ではありますが、怯ませるくらいのことは出来るのではないかと」
成る程。とセネリオは頷きつつ城の周囲を見回した。主に騎兵と重歩兵で構成されているが、剣士や弓兵、神官の存在も垣間見える。数は目視で確認できるだけで二十はいる。恐らく、森の中にも伏兵が潜んでいるだろう。耐久戦は免れない――都合が良い。
「アイク。魔道の心得がある騎兵はそういません。魔法は重歩兵に有効ですし、その移動力で杖を使ってくれるだけでも充分役に立つ人員であると思います。戦力を補強しなければならない今、断る理由はないかと」
「……けど、ミストと同い年の女の子を戦わせるなんて。ご両親が見たら泣いてしまうかもしれないわ」
セネリオの冷然たる口調は参謀らしく如何にも傭兵団の利だけを考えたものだった。そこに情など一切存在しない。このままでは流石にいけないとティアマトが口を挟む。挟むのだが――。
「ご安心を。既に家は捨てた身です。こちら側からも報酬を頂くのですから、利に適った関係が築けると思いますが?」
硬い声で滔々と言葉は続く。……つくづく機微を察し状況に応じた振る舞いをするのが――それが彼女自身の得になっているのかは分かりかねるのだが――上手な少女だとティアマトは思う。
できれば、年若い少女に戦わせたくなどなかった。平時ならまず制止しただろう。
だがそれは、そうあってほしいという我が儘にすぎないことも、今そのような綺麗事を並べていられる状況ではないことも、理解している。
無謀を好んでいるわけではないが、今は戦いにおいて必要なすべてを、生き延びる確率に上乗せせざるをえない。ここで敗北すれば全てが無駄になる。
ティアマトは団長であるアイクと一瞬視線を交錯させて、小さく頷いた。
「……うちは貧乏だぞ。望むような給金は出してやれないかもしれない」
刹那の逡巡の後出たのは、了承の言葉だった。
「慣れっこです。最低限の食に困らないのであればいっそ無償で働きます。出世払いでも構いませんが?」
瞳がかち合った様、唇に笑みを描かせたままフィリスは横目でアイクを見遣った。これにどこからともなく緊張感のない笑みがこぼれ落ちる。
「……ふっ」
「ふふっ」
笑える程に余裕がある。……余裕ができたのかもしれない。
――そしてアイクは、団長として新団員に命令を下す。
「フィリス。戦闘準備だ。俺からの命令は一つだけだ――死ぬな!」
どこかひんやりとした、纏わりつく大気が満ちるその場所で、ちらばる雫が無数のきらめきを放つ。
戦の気配を感じ取ったのか、ぶるるっ、と鼻を鳴らして困惑と怒りを訴えてくる馬の背を何度も叩いてやり、フィリスは苦笑した。
フィリスが出奔した際連れてきたのは、艶やかな毛並みを持つ青毛の馬だった。気難しく乗りこなすのに苦労したが、それに見合う俊足と持久力を有する自慢の愛馬だ。苦楽を共にした愛馬と再び運命を共にする、それだけで心細さからくる胸中の翳りが払拭される気がした。
手綱を握る拳に力をこめて、空を仰ぐ。相変わらず色彩が無い。――女神の涙が降っているようだと柄にもなくそんなことを思った。
正の女神はあらゆる者に慈悲深く、同時に残酷だ。それでも、生きとし生ける者は救いを女神に望まずにはいられない。
(長い戦いになりそうですね)
団員たちは三方向に分かれ、同時に攻めこんでくるであろうデイン兵に対抗する手筈になっていた。フィリスはセネリオ、キルロイと共に後方からの支援を任された。城の中に攻め込まれたら中に隠れているミストやヨファ、行商隊に危険が及ぶ。故に城門からの侵入を何としてでも防がねばならない。
「みんな、準備はいいな!?」
低く、重く、団長が告げた。ざわりと殺気が浮き立つ。
フィリスはすばやく思考を切り替えた。もはや死地へ踏みこむだけだ。片手で魔道書を取り出すと、捲った項を雨滴に濡らした。
「グレイル傭兵団、出撃だっ!」
それが合図となった。
濡れた土を散らし、隊列が駆ける。靴と馬蹄の音が古城の地を踏み荒らす。馬達の嘶きが、鬨の声が、戦場の空に響いた。
先陣を切ったのはティアマトだった。馬上から戦斧が振るわれ、侵入せんとするデイン兵の刃を受ける。
刃を手にした騎馬兵が次々と疾駆するが、ティアマトはそれを躱しては、容赦なく的確に刃を突き立てた。デイン兵はそれを受け止め、弾き返していくが戦列はどんどん乱れていく。
冷然と剣戟を繰り返しながら、ティアマトは振り返ってアイクに告げる。
「アイク! 正門は任せて頂戴!」
「――分かった! ボーレ、オスカーは俺と裏門より侵入する兵を二手に分かれて抑えるぞ! キルロイは俺たちの後ろに、セネリオとフィリスはオスカーの後ろにつけ!」
少数精鋭の傭兵団の名は伊達ではない。ましてや彼女は名の知れた副長だ。正面の守りはティアマト一人で事足りる。
ティアマトに続くように、アイクとボーレ、オスカーが守りを固める。――あとは体力が続くまで、敵兵を殲滅、あるいは退けるまで、死んでも守りきるのみ。
「さて……怯ませることが出来れば良いのですが」
フィリスは定式化された呪文を指でなぞる。
彼女はこと魔道において秀でていると自分で思ったことはない。資質は平均からほんのわずか上といったところで、習得した魔道書も少ない。何より、『雷』に特化こそしているが他の属性はからきしであり適性もない。それは努力や修行ではどうにもできないものだった。
だが、大陸一と謳われ、精霊の祝福を一心に受けた魔道家から基礎を教わった。呪文詠唱、魔道書の解読、魔力の展開、放出――その何もかもを。
何より、平凡な素質を補強するために――『何でもやった』
「――“喰らって”ください」
その一つが、左肩に刻まれた“精霊の護符”。
自身の魂を『餌』とし、体内に『飼う』ことで魔力を格段に上げる契約。
この言葉を皮切りに、彼女の周囲に青い雷が瞬いた。
そして、契約の恩恵でフィリスは一節程度の呪文詠唱……つまりサンダーの魔道書ならば『魔道書の呪文を指でなぞる』という一工程で繰り出すことができる。
オスカーに狙いを定めて跳ね上がった馬脚が、振り上げられた槍が、蒼白の光の如し青雷に一瞬動きが止まる。
そこに隙が生じた。優美とすら思える動作でオスカーは躊躇いなく、敵兵の胸を一突きした。抵抗する暇もないままその刃を受け入れた黒鎧は、ぴくりと痙攣して馬上からずり落ちていった。
「助かったよ。ありがとう、フィリス」
「援護は任せてください!」
致命傷を与えた以上、最早その者に構ってなどいられない。オスカーは馬首を返して再び距離を取ると、槍を構えたまま突貫してくる重歩兵の迎撃に備えた。
一連の流れを確認したフィリスは、消費された呪文の、次の一節に視線を移した。
――心臓が、大きく高鳴っている。
底冷えするような、それでいて血流が燃え上がるような、無音にも似た高揚感が意識に染み渡っていく。“喰べられている”のだと分かる体内の異物感すら、今は心地良い。
震え、緩みかける口許を必死に律する。
精霊と契約したのは“止者”の痛みが知りたかったからだ。
完全なる好奇心で、フィリスは『正しい人としての生き方を捨てた』
それで良かったのだと、今は思う。
――覚悟が足りなかった。
――勇気が足りなかった。
理想だけを抱いた嚮導は、真に希望に縋ったものが未来に辿り着けないという結末で終わった。
彼らの死の責任は全て己にあり。
彼らの命を浪費したまま無為に過ごすことなど許されず。
――故に彼女は膝を屈してはいなかった。否、ならなかった。
“剣がなくとも爪で嬲り殺す。
両腕がないのなら両脚で躙り殺す。
どちらもないのなら牙で噛み殺す。
戦って、殺して、そうやって生きてきた――。”
(ああ、そうでしたね)
これは奴隷に堕とされて尚諦めることをしなかった彼らの誇りと執念だ。そうやって生きてきた彼らは、そうやって死んでいった。
ならば、自分もそうやって生きるべきであり、そうやって死ぬべきなのだ。
次は失敗しない。次こそは刈り取らせない。
その為に、此処に来た。……全ては自分の思惑通りに。
その為に、己が全てを費やして、駆け抜けてみせるとも――!
「これはきっと、傲慢による蹂躙です。ですが――」
呪文に指を這わせる。青雷を周囲に噴出させる。
どれだけ時間を稼げるだろうかと目算しながら、息を吸いこみ、力の限り馬の腹を蹴った。
「勝った者が、生き残った者がそれを正当化できるのであれば、私のそれは、きっと『正義』になる――」
選んだからには、決断したからには引き返えすことなど出来はしないのだ。
苛烈すぎるほどに苛烈な雷は、彼女の性質を表しているかのようだった。
◇ ◇ ◇
――まるで一つの運命が動き始めたかのようだ。
ライは何度目かの溜息を呑み込みながら、ガリア城の廊下を歩いていた。
あの夜。ライはカイネギスと共にゲバル城へと赴いていた。そこで、漆黒の鎧を纏った騎士の手によってグレイルは息絶えた。厚い曇は天を埋め、木々の隙間を縫い、夜気の棘が悲劇とともに巻きついた。
父息子の最期の語らいを邪魔せぬよう静かに身を引いたカイネギスの背中は、王としてではなく、一人の友人として、友を助けられなかったことを悔いているようだった。
王宮に招かれたエリンシアは当然の反応と言うべきか、報告を受けるなり涙した。自身を此処まで連れて来てくれた依頼主が命を落としたのだ。無理もない。
……だが、希望が潰えたわけではない――グレイル傭兵団は存続している。
老臣たちは相変わらず良い顔をしないが、部族の長のなかでも抜きん出て重きを置かれる立場の者らが王のもと日々話し合い、このガリア城へ傭兵団を迎え入れるべく手筈を整えているところだ。その足掛かりとして、レテとモウディの二名を既にゲバル城へと遣わせている。
事態は良い方向へと進んでいる――それでも、ライには一つ気掛かりなことがあった。
帰還の途中、遠くの山陵に朝陽が融ける頃、慎ましやかな花の香がライの鼻腔を掠めた。
間違えるはずがない。あの匂いは――。
「フィリス、だよなぁ……」
実際姿を見たわけではないが、最早確信に近かいものがあった。噎せ返るような薬草の香りで掻き消そうが、花の蜜のように甘やかな芳醇さを醸し出す者など、ライは彼女以外に知らない。そもそも、小細工をしたところで獣牙族の鼻に誤魔化しは通用しない。
取り扱いに注意が必要なのは分かりきっていたことだが……予想を上回るじゃじゃ馬である。仕方がないと思い込むようにした。
「懇意にしてる少女が気になるか?」
「っ!?」
不意に話しかけられ、思わず喉が鳴った。
唐突に背後より現れたジフカに、ライは尻尾を立てて目を丸くする。どうやら気配に気付かない程度には思考を巡らせていたらしい。
「ジフカ様! ……そう表されますと、ちょっと……」
曖昧に微笑んでみせると、ジフカは片眉を持ち上げた。
「違ったか?」
「……してるかしていないかだったら、してますけど」
「仲睦まじいと風の噂で聞く」
絶句する。無論、否定したいわけではない。寧ろ彼女との関係は良好そのものであり事実である。だからこそこの噂は悪意や皮肉が込められていると分かる。
獅子王の忠臣がベオクの少女――ベグニオンの伯爵令嬢を匿うという異例の出来事を、ラグズ達は沈黙という形で受け容れた。ガリアにはベオクの村が存在し、そこに住まうベオクも存在するが、ベオクとの交わりを寝物語に聞くのと実際に目の当たりにするのとでは重みが違う。ライが預かった案件ということもあり表立ってとやかく言う者はいないが、反感を抱く者も多い。こうしてライは幾度目かの変わり者の烙印を押されたわけである。
「……ベオクの年齢で換算したらオレ、アイツにおじいちゃんって呼ばれてもおかしくないんですけどね」
どう見れば男女のそれに見えるのか、当事者であるからこそ尚更ライには分からず嘆息した。
「勿論、あの子との関係にもう打算はないつもりです。本当にただ出奔してきただけのようですしね」
ライの声はただただ穏やかだった。
この三年、実に平穏に過ぎていった。これが何よりもの証だ。彼女が内通者であったならば今頃ガリアは焦土と化しているだろう。
「……そういえば、どんな少女か聞いたことがなかったな。聞いても?」
当然といえば当然だが、ジフカはフィリスの姿を見たことはあれど言葉を交わしたことない。一度(ライには内密に)カイネギスの命を受けベオクの村へ降りた際に、木々の隙間から覗いた事がある程度だ。
その言葉にライはしばし首を捻って――話し始める。
「そうですね……きちんとした“教育”は受けているんですよ。勉学だけじゃない、きっと親以外に彼女の側にはそれを教えられる立派な大人がいたんだと思います。やや形式ばってはいるけれど、相手の嘘や建前を見極めた上で、それらを自分も使い分けて、得をするにはどうすれば良いか考えて――そういうの、ラグズは嫌うんで、出来たからといってガリアで活かせれるわけじゃないんですけど、オレは大事なことだと思います」
真意が汲み取れないものは勿論、考えが見え透いているからこそ青臭く、可愛らしく、“大人”は敢えて乗ってしまう、そうさせてしまう――フィリスにはそんな『狡さ』がある。
「けれど、それを行うにあたって、本来は相手の得も考えなきゃいけない。己の得しか考えていないそれは周りとの軋轢を生んでしまうんで。んで、あいつのそれは、ちょっとばかし独善的なんですよね。まぁ、若いし、箱入りだし、経緯と事情を考えたら仕方がないんですけど」
ライの表情が笑みを形作りながらわずかに波立つ。
幸いにも、状況により立ち居ふるまいを切り替えることに長けたフィリスが、詭弁を嫌うラグズに対して一歩引くことで衝突は避けられてきたが、彼女は『ラグズの為になることを成すこと』を諦めてはいない。
そこでライが仲人として間に入ることで、慎重に、確実に、軋轢を生まない程度には溝を浅めていったのだ。
それでも、フィリスがライにラグズの件で縋り付いたことは一度もない。弱音らしい弱音を吐いたこともほとんどない。それがライには気掛かりだった。
「――だからこそ、オレは、甘えるっていう子供の仕事を覚えてほしいと思ってるんですよ。
アイツが歩くのに疲れたとき背中を支えて助言くらいはできる大人でありたいし、人を信頼し、困った時には頼るっていう、誰かと生きていく上で当たり前のことを知ってほしいんです。そうすれば、おのずと相手の思いも見えるし、双方が得をする立ち回りができる」
『自由』な彼女には無限の未来がある。分別のつく少女だとしても――やはり、まだ幼いのだ。歩く路の先を少しでも拓いてやりたいとライは思う。
「それが、あの子の面倒を見るって決めたオレなりの責任だと思ってるので」
ライはふと笑みの種類を変えた。眉尻を下げるように細めた瞳には慈しむような清らかさがあった。
「それに……やっぱり、子供には笑ってほしいじゃないですか。笑顔っていう報酬が大人に
は嬉しいものです。そこにベオクもラグズも関係ありませんよ」
「……そうか」
ジフカが口端を釣り上げる。
「王が聞いたら、お喜びになるだろう」
たちまち、ライの耳が垂れ下がった。
「いえ、その、何か恥ずかしいので、ここだけの話ってことに……」
ライは羞恥を感じたのか沈黙し目を逸らす。ジフカもまた黙したまま何も語ることはなかったが、口許には確かに微笑がたゆたっていた。