13
再び太陽が目覚め、緊迫した朝がやってくる。灰色の光が隙間から差し込んで、昨日と変わらぬ世界をそこに映しているはずだった。だというのに、風にそよぐ葉の音はどこか雨音に似ている。
フィリスは褥に深く潜り込み、小さな身体を蹲せる。まるで、世界から隔絶されようとするかのように。手足の末端から凍りつくような感覚に小さく身を震わせ、指先を見遣る。そこに血はない。けれど、赤黒い色彩が、ぬるりとした感触が、皮膚の奥に染みついて離れない。
一睡も出来なかった。——微睡が夢の世界へと誘おうとするたび、何度もあの瞬間に戻された。戦場の音。鉄の匂い。倒れゆく敵兵の視線。そして沈黙。
死者は何も責めず、問うこともない。けれど少女にはそれがたまらなく残酷に思えた。どうして朝は、当たり前のようにやってくるのだろうか。覚悟を決めたはずなのに、自ら手にかけた命の重さが、後からのしかかってくる。覚悟の名のもとに手を汚したはずなのに、それでも尚、こんなに脆い心のままだった自分を――どうしても許せなかった。
ガリア来て最初の頃は、眠れないのを見兼ねたライが身を寄せて猫枕をしてくれた。ひとつの褥を分かち合い、柔らかな体毛に身を埋め、その中で温かくやわらかい真綿の中にずぶずぶと入っていくような感覚を待っていた。
ぬくもりが甦り、震えがいっそうひどくなった気がした。恋しさはやがてきりきりと胸を締めつける痛みに変わる。
「フィリス、起きてる……?」
ぱらぱらという軽やかで弾けるような枝葉を揺らす風音に、石畳を叩く足音がまじる。薄目を開くと、狭い出入口の扉が控えめに叩かれた。
「……はい。起きていますよ」
わずかな沈黙の後、寝台から上体を起こし干涸びた声を絞りだすと、ミストが窺うように入ってきた。足元に置かれた小さな籠の中の、すっかり固くなったパンと乾燥させた木の実が一口分も減っていないことに気づいたようで、形のいい眉をひっそりとしかめた。
「食事、摂ってないでしょ。起きてこないから心配しに来ちゃった」
「……ごめんなさい」
心配が滲み出る言葉にフィリスはうなだれるしかない。だが、何かを口にしようという気力は湧かず、ぽそりと謝罪すると、「責めてないよ」と下げた頭に手が添えられた。ミストの声は、手付きは、日干しした布団のようにやわらかい。
「……大きな口を叩いておきながら、疲れてしまったようです。面目ありません。支度も済ませねばならないのに……」
「ううん。……みんなと一緒に戦ってくれて、本当にありがとう。おかげで、また朝日が見れた」
わずかに、フィリスが顔を上げる。その先にある、少しだけ強張った泣き笑いのようなミストの表情に、思わず息を呑む。
「あのね、わたしも決めたんだ」
ゆるりと目を伏せ、葉擦れに紛れて響くミストの声は、どこまでも透き通っていて。
「わたしも、次は皆と一緒に戦うって」
持ち上げられた薄い瞼の下から現れたのは、亡きひとへの情愛を溢れ出る泉のように湛え、穏やかさの中に決意を秘めた、澄み切った碧色だった。
「だから、フィリスは一人じゃないし、一人にはさせないから。……それだけは覚えておいてね」
柔らかく笑うミストの声に翳りはなかった。この世の悲しみを味わい尽くしたばかりだというのに、それでも生きて、死ぬ場所を選んだ人間のしなやかな根強さが滲んでいた。
「……ありがとう、ございます」
きっとこれから、家族を守るためならば、武器を手に握ることも、血を浴びることも厭わなくなるのだろう。
ミストのまなざしは恐ろしいほどにまっすぐで。それを正面から受け止めるフィリスは眩しげに目を眇めた。
……あまりにも眩しくて、思い知らされてしまった。
覚悟という言葉に縋って、自分の脆さから目を背けていたことに。本当は、強くなりきれてなんていなかったことに。
それでも、時は戻らない。罪も、後悔も、今更どうしようもないのだ。
「私も、もっと強くなります。貴方たちをお守りできるように」
故に、惑っても惑い足りない気持ちは、今日この場限りで、褥の中へと吸い込ませて。
泥濘でもがくような道のりでも、決して折れぬように。
「共に、戦い抜きましょう」
意を決して昨日ぶりに口にした食事は、腹の奥に深く染みた。
◇ ◇ ◇
身繕いを終えた傭兵団一行は、使者の案内の元ガリア王宮へ向かうべく歩を進める。王都へと続くその道は、文明の手を拒んできた自然の中にあった。
踏み慣らされた道など存在せず、太陽は高く昇っているはずなのに、生い茂る木々の天蓋が光を吸い取り、辺りは昼間だというのに仄暗い。木の幹は曲がりくねり、根は大地から這い出して、まるで歩みを拒む罠のようだった。
それでも、木々の切れ間から時折、遠くに青く光る海が覗いた。潮風が混ざった湿った空気が森の香りに溶け込み、時折頬を撫でる。海と森の境界は曖昧で、風が吹けば、海のさざ波と森のざわめきが交差し、どちらが支配者かわからぬまま音の波が間をすり抜けていく。
(本当に、行っても良いのでしょうか?)
胸の奥で、誰にも聞こえぬ声でフィリスはささやく。
フィリスが王都ザルジへと赴くのはこれが初めてのことだった。かつて、フィリスは不法にこの国の地を踏んだが、明文化された法や政治機関を持たないガリアでは罪人を裁くための司法も存在せず、フィリスの処遇はライの言葉が掟として形づくられ、この地で住まうことを許された。
そんな自分が、客人である傭兵団として、今や王宮に向かっている。
小さく息を吸い、背筋を伸ばす。震える手のひらをぎゅっと握りしめていると、リリン、と鈴の音が聞こえた。
「おまえ……!」
途端にスウ、と空気が重くなるのを感じる。
ため息を噛み潰して振り返ると、ガリアの使者として傭兵団の元へ派遣されたレテがずかずかと近付いてくる。声音だけで予想はついていたが、照り付ける陽射しのような美貌はいつになく苛立ちを滲ませていた。
「レテ殿……」
「聞けば、傭兵団に入ったそうだな。守られるフリをして立派な牙を隠し持っているとは、想像以上に痴れ者ではないか」
レテの口ぶりはたいそう忌々しげだった。冷徹な目を見つめかえす微笑みのやわらかさだけが、ひどく際立つ。
「……隠していたつもりはありません。貴方が知らなかっただけです」
「……なんだと?」
小振りな唇から紡がれる抑えた声音に、紫苑の色に鋭利な閃光が宿る。
「貴様のしていることは、ライの厚意を無下にしているのだと分かっているのだろうな? 貴様を保護し、ガリアで暮らしてゆけるよう手配する為に、あいつがどれだけ周りのラグズに気を配ったと思っている」
矢継ぎ早に捲し立てられ、レテとは対照的に、フィリスは目を伏せる。閉じられた瞼と、薄影に重なる頬に落ちる睫毛の影。木漏れ日に緩慢に舞う光の微粒子が二人の間に満ちる。
「……そんなことは百も承知です。ですが……戦が始まろうとしている今、置いてきた荷物を心配してはライも動きにくくありましょう」
あくまで毅然とした表情を崩さずに言い返すフィリスを映し、レテの片眉が跳ね上がった。目を伏せている間、「フン」と蔑むような声が聞こえた。
「自身をお荷物と称す割に戦意が隠しきれていないではないか。こんな小娘に欺かれるとは、ライには同情する」
「……ライはきっと、敢えて乗ってくれているのです。それに、嘘には必ず理由があり、相応なものが付与されています。偽ることこそ義務である方だっています」
その唇にしおらしい微笑をうっすらと模らせる少女に、レテはすかさず切り返す。
「義務だと? 笑わせる。欺瞞は不満と反感を生むもの。虚偽を語って尚、真の信頼関係を築けるとでも?」
「誰も彼もが己を偽らず生きていけるわけではありません。……私は、貴方を羨ましく思っておりますよ、レテ殿。ですがその眩しさは、陽の目を見ることすら叶わぬ者には些か目が眩むものです。その瞳が翳った時に、同じ台詞を言えれば良いのですが」
目が灼けるほどの鮮烈な眼差しに屈せず、言葉をもってフィリスは彼女の口を塞ぐ。
「貴様ッ――!」
反論に耐えかねたレテが声を上げて手を振り翳す。獲物に狙いを定めた猛獣が急降下するかの如く、獣牙の鋭い爪が疾る。
にもかかわらず、それを迎え撃つ青緑の目はどこまでもまっすぐで。躱す素振りも見せない小さな少女は、微動だにしなかった。
「レテ! ダメだ!」
その手が届く寸前、もう一人の使者——モウディがレテの腕に飛びついた。その動作を目で追うと、フィリスは瞼を伏せてひっそりと息を吐いた。
「モウディ! 邪魔をするな!」
「フィリスはイいベオクだ。ケンカはヨくなイ」
低く響く声の指摘は冷静だった。制止されればレテがカッと両目を見開く。形相の凄まじさには、思わず見たものを凍てつかせてしまいそうな眼力があった。
すぐ近くで怒鳴られ、喉が凍りついても可笑しくないというのに、モウディは静かな声で窘める。
「良いベオクだと? 笑わせる。小娘という外面に惑わされているだけではないか!」
氷のように冷ややかな視線がフィリスの首筋をなぞる。
「こいつはどれだけ、清く正しく、そして優しく振る舞おうが、結局は己の目的を、己が成したいと思ったことを果たす為に人の厚意を利用する傲慢な小娘だ。それに騙されるからお前は――」
「レテ」
柔和な声が、低く響き、言葉を引き継ぐ。
「モウディたちは、仲間ダ。仲間同士で争うのは、仲間を悪く言うトコろは見たクなイ」
鋭さを覆い隠すのは、穏やかな口調。幼子に言い聞かせるようにモウディは語った。
ぴたりと動きが停まり、冷静さを取り戻したレテは身体から力を抜くと、ひとつ息をつく。
「……モウディの言うことももっともだ。私たちは客人を王城へと案内するのが務め。傭兵団が客人である以上、貴様もそれに含まれる。だが――」
あくまで平静を保つ声には、ほのかな棘。
「私は貴様を認めない。ガリアを危険に晒してみろ。貴様の首は繋がっていないと思え」
場に満ちるは沈黙。吐き捨てるように残された言葉を最後にその場を去る上官を、モウディはその姿が見えなくなるまで見つめ、次いで目を伏せたまま両手を握り込むフィリスを気遣うように見遣る。
「……フィリス、大丈夫カ?」
「お気遣いありがとうございます、モウディ。……レテ殿は物事の本質を見るのに長けていますね」
労りに満ちた声に、フィリスは困ったように眉尻を垂れ下げ、小さく頷いては言葉を続ける。
「……ライだって、分かっていないはずがないのです。分かっていながら、私の意志を尊重してくれている。悪評が付き纏っても、自分が何と言われようとも……」
自分の置かれている状況を的確に捉えて、それでありながら自分が最善と信じた行動は、ともすれば恩を仇で返す行為に等しい。ガリアの為になる事が、必ずしもベオクを嫌う彼ら獣牙族の得になるとは限らない。ベオクに助けられるという行為は、彼らの尊厳を傷付けかねないからだ。だから、レテはライを思って憤っている。彼女はベオクを厭う以上に、同胞思いだ。
「レテが正しいナら、モウディは、フィリスが見えテいナいのか?」
問われれば、フィリスは困った顔のまま笑う。
「……少なくとも私は、優しくなど。……清く正しくなどありません。それだけは、確かです」
フィリスの口調に苦い色が帯びる。笑みをたゆたわせたままのフィリスに深く澄んだまなざし向けられる。
「それでモ、モウディに優しイフィリスは、ウソじゃなイのダろう?」
数度の瞬きの後、うっすらとした微笑はそのままに、モウディの顔を覗きこみながら見上げる。
「……はい。フィリスは心から、モウディと仲良くしたいと思っております。そこに打算はないつもりです」
いちど瞑目し、息を吸いこんだ。そして、友好の言葉を口にする。
「ナら、モウディはソれでイい。フィリスはモウディにとって大事な友達ダ。良いトころも、悪いトころも、わかリ合っテの友達ダ」
「モウディ……」
返ってきたのもまた、嘘偽りのない、心からの言葉だった。その眸のやさしさに打たれうっすらと涙ぐめば、モウディの逞しい両腕にそっと抱き寄せられる。
「安心シろ。モウディは、フィリスのことも守るゾ!」
あやすように背中をさすられ、弱々しく頷く。睫毛にまとわりつく涙の気配を払い落とし、フィリスは喉を鳴らして笑った。
「……頼もしいです。それでは、お言葉に甘えることにします。ですが……モウディが危ない時は、フィリスに守らせてくださいね?」
「アぁ! 助け合イだ!」
抱擁を解いたモウディと共に歩みながら、フィリスは握りしめていた拳を開き、空のてのひらをじっと見つめる。
ライの庇護の下で暮らしてきた自分がどれほど恵まれていたのか。ライは円滑油であり、彼にもまた、守られていたのだと——痛感する。
……王宮で会うことがあれば、彼はどのような反応をするだろうか。
不安はあった。恐れもあった。けれど、そのすべてを包み込むように、胸の奥に変わらないひとつの強い願いがあった。
――この国の、ライの、力になりたい。
逃げるようにして足を踏み入れたこの国は、フィリスを追い出すことなく、生きることを許してくれた。ライの優しさに触れ、守られ、学び。ようやく今、自分の足で立とうとしている。
ならば今度は、自分が彼らの助けになりたい。どれだけ厭われようが、彼らの痛みを軽くし、守る側に立ちたい。
ここから、また始まるのだ。
恩返しのように、祈りのように、フィリスは心の中で誓った。