目眩がする。世界が酷く歪んで知覚している。
ライは四つの足で歩いていた。正確には駆ける程の体力を有していなかった。ラグズの化身には体力と精神を同時に消耗する。いくら優れたライとて、限界を迎えれば化身は解ける。
それが道理。それが世に伝えられるラグズの常識。
だが――今のライは、そういった“道理”からは少し外れた状態にあった。
限界を迎えることで化身が解けるのならば。
化身が解けないよう限界寸前の状態を維持するため細工をすればいいだけ。
『きっ、つ……』
とうとうその場に寝そべったライは、どうにか交差させた前足に顎を乗せてげんなりと嘯いた。鬱陶しいほどの血の匂いに鼻がおかしくなりそうだった。
無論、長く保つようなものではない。あくまで化身の石を使用し一日解けなければそれでよいというだけの代物。
解けない化身はライに絶え間のない苦痛をもたらしている。しかし、今ライを蝕んでいるのは外側の痛みだ。
鈍い痛み。美しかった獣毛は赤く濡れそぼり、血は後から後から零れ落ち、止まることはない。
『ったく、加減しろよ、スクリミルのやつ……』
ライは重い溜息をつく。
この有様が次代の獅子王との鍛錬に頭に血が昇った果てなのだから笑うしかない。
再び固く目を瞑り、鬱憤をぶつけるように長い尾で地面を打った。ぐるぐると低く転がる唸り声も弱々しい。
化身を解けば負った傷にヒトの身体が耐えられない。ならば、苦痛を受け入れる他ない。 ……なんて、無様なのだろう。
理性が薄れ、暴虐のみが脳を支配したのは久しぶりだった。まだ戦えると化身の石まで用いて。
理性のない行動など己にあるまじき罪業だ。理性で制し、育むことこそ責務であり、それに背くような行いはライ自身が許さない。
(……結局オレも、立派なラグズだったわけだ)
自嘲を噛み殺し、ライは薄く目を開けた。
そもそも、何故頭に血が昇ったのだろう。そうだ。あいつがあの子の――。
「――ライ?」
思考が澱んだ末ついに幻聴が聞こえるようになったのかと錯覚したが、対岸の木陰からの声は紛れもなく現実だった。
曖昧な視界の先、冷たい朝露に身を震わせながらも気丈に綻ぼうとする野ばらのごとき容姿の娘は、杖を握りしめ、不安そうにじっとこちらを見つめている。
まるでライの苦痛を見透かしているような表情に、彼は喉の奥で唸った。
『悪い、驚かせたか?』
「いえ、お姿が見えたので後を追ってきたのですが……その怪我は」
ライが絞り出した声はか細く掠れていた。その声を耳にして、少女の声音が潤みを孕む。薄い唇が言葉を探しては言葉に出来ず、眉を苦しげに引き絞る。
『あはは、少しやんちゃが過ぎてだな……』
「でしたら化身を解いて――」
『それが、今解けないんだよなぁ。体力も気力も削られるし困った困った』
あくまでも陽気な声だった。柔らかいままの気配が、ふっと途切れた。
苦しげな唸り声に、少女がとっさに駆け寄って手を伸ばすと、ぬるりと生あたたかい雫が指を濡らした。生々しく立ち上る血臭に唾を飲む。
どれほど頑丈なラグズであれ血を流しすぎれば死んでしまうことくらい、少女は嫌という程経験していた。
「……少し失礼します」
少女は血塗れの両手で勢いよく裙を引きちぎった。傷口を塞ぎ、布切れを巻きつけていく。ライは予想以上の手負いで、どれほどの死闘だったのか、少女には考えもつかなかった。
『ちょっ……おい!?』
「気休めにしかなりませんが、これで止血します」
足りない分は袖まで裂いて、少女はなんとかライの傷を覆っていく。無惨なぼろ切れにも等しい有り様にライはぎょっとした。
『ばか、自分の格好見てみろ! いいって。暫くすれば――』
「死にたいのですか!?」
少女の身形を案じて何気なくそう放ったライに、少女は虚しさと悔しさを滲ませた怒号を浴びせる。
いきなり怒鳴られ、罰の悪そうに黙り込むライから気まずげに目を逸らし、少女は彼に背を向けた。
「……ごめんなさい。少し待っていてください。家から血止めと痛み止めの薬草を――」
『だったら、その杖で治してくれないか?」
慌てて引き返そうとする少女を、ライは静かに制止させた。
煩わげに振り向いたのも束の間、ライの言葉を反芻した少女が目を丸くする。なんでもないことのようにライがそれを言ってのけたからだ。
しばしの沈黙の後、少女は顔を顰めて言った。
「……良いのですか?」
迷わずライは首肯する。逡巡の末に、少女は杖を掲げた。
ベオクの知恵と武器を厭うラグズ。そのラグズであるライが、ラグズとしての誇り(彼にそれがあるのかは少女が知り得ないところではあるのだが)を棄ててまで言ってくれたであろう言葉を無碍にすることは少女には出来なかった。
少女は小さく息を吸う。魔力を織って、紡ぐ。
「――“Dolor translatum est gaudium,
Dolor absque periit;”」
囁きは鈴の音の如く。淡い光は春のように、花のように柔らかい。
(……あたたかい)
感じたことのない温みにライは困惑した。身体の打ちで火が燃えているのだろうか。いや、もっと熱い。滾るような、それでいてやわらかく、まろく、深く染みこんでくれるようだ。
少しずつ、しかし確実に傷は塞がり、苦痛は徐々に和らいでいく。奇跡と呼ぶに相応しい癒しの魔法。
「……どうですか?」
『傷も塞がったようだし、随分楽になった。薬草や傷薬よりよっぽど即効性があっていい』
わずかに疑うような表情を浮かべながら、少女はそっと血のこびりついた体毛に手を滑らせた。さっきまであった傷が塞がっているのを確認して、薄い唇をほんの少したゆませて心から安堵した。
「よかったです」
『オレはもう少しここで休んでくよ。ありがとうな』
ライは頬を緩め、そのまま腹這いになる。使いすぎた力はまだ半分も戻っておらず、途端に泥のような疲労感が押し寄せてきた。化身を解こうか考え――己を御しきれなかった戒めとして、もう少しだけこの姿でいることを選択した。
『――どうした?』
不意に、瞼の裏でちらちらと光の残影が踊る。誘われるようにそっと目を開いて瞳を滑らせると、少女はどこかあどけなさを感じる表情で、身体を丸めるライを見つめていた。
「……あの、ライが動けるようになるまで、私もここに居ていいですか?」
少女が首を傾げて尋ねる。
少し間を置いて、大袈裟な咳払いのあと、ライは渋みのある口調で言った。
『そうだよなぁ。その格好のまま一人で歩かせるのは、“保護者”として容認できないよなぁ』
確かに、少女の格好といったらひどい有り様だった。
衣服のあらゆる箇所は血に染まっていて、布地を引きちぎった裙はほとんど意味を成していない。
己の身なりに気付き、少女は恥じ入るように傍に腰がける。そこから長い沈黙が生まれた。
(どうしたもんかなぁ)
疲労感は眠気に変わり、思考はほとんど働いていない。だというのに、気を回さずにはいられない。
ライは探るような慎重さで、鼻先で少女に触れ、匂いを嗅ぎ、ふうっと吐息を洩らした後、濡れた舌で頬を舐めてやる。
あまりにも突然の出来事に、少女の呼吸が激しく揺らいだ。
「……っ! と、突然何を……!?」
『ん〜? 少しスキンシップを取ろうかと思ってな』
少女の矮躯からは、血や薬草の匂いに混じって花の香りがした。瑞々しくも甘やかな花の香りは、少女が好んで育てている品種のものだ。ライは彼女の頬に頭を寄せると、驚くほど優しい声で言った。
『不安にさせてごめんな』
あまりにも優しく、慈しむような熱に満ちていたから、少女は子どものように太い獣の首にかじりついた。血に濡れていない水縹と白の体毛に顔を埋め、悔恨を滲ませながら告げる。
「……私が目にする、化身した貴方たちは、血に濡れた姿ばかりでした」
ぽろりとこぼれた言葉に、ライは息を呑み、少女自身ですら表情を固めた。
「血がこびりついて、毛が赤く染まって、私は、そんな彼らに縋り付いては、置いていくばかりで……」
思い出してしまったら、いやなことやおそろしいことばかり考えてしまう。ライの毛皮のぬくもりに縋りながら、知らず唇に乗せていた。
「貴方がたの力になりたい。共に生きたい。そう願い、力で成し血を流した。その先にあるものを、果たして綺麗な夢と言えるのでしょうか」
少女はそっと深い被毛を撫でさすり、身を寄せる。
流れた血があった。失われた命があった。
それでも後ろを振り返らず道を進んだ故に、引き返すことが出来なくなった少女のそれは、ただただ痛々しくて、それがライには悲しく思える。
『見るだけのそれに綺麗も何もないさ』
小娘の望みがこの地で叶うはずあるまい。と、スクリミルに笑い飛ばされたのはつい先刻のことだ。
そう、彼女の望みはあまりにも純粋で――美しいだけのものでしかない。
同じことをライも思ったことがある。今だって本気で叶えられるとは思っていない。
それでも、傷付きながらも自分の経緯を話し、この地で暮らしていく覚悟を見せられたら、手を貸さずにはいられなかった。事情を知らぬ者に一蹴されるのが許しがたかった。……それを口実にスクリミルに対する日頃の鬱憤を晴らしたかっただけなのかもしれないが。
『だがな、少なくとも、お前と共にしたラグズは、お前に夢を見たんだろう。ラグズがベオクに……心から、綺麗な夢を、その先を』
愚かなことに。と続くはずの言葉は、口から吐息として出るのみで、心の奥底にしまい込んでいた。
『で、だ。その先っていうのはベオクもラグズも通ったことのない路であって、きっとそれは、王や……オレ自身がずっと求めていたものなんだ。だから、夢見ることをやめちゃダメだ』
そして、ライもまた、少女に夢を語ることしかできない。故に力を貸したいと。挑み続けて欲しいと願うのだから。
明るくもどこか苦しげに語られた言葉は、それでも少女の胸の真ん中にすとんと落ちた。彼女は何度も瞬き、彼をよく見ようと顔を上げた。
「……ズルいです。そのお姿ではいつも以上に表情の違いが分かりません」
『いつもって……オレ、お前よりは表情豊かだと思うんだけどな?』
楽しげに喉を鳴らすライに、少女はふて腐れた顔をして、それから再び首元に顔を埋める。
「もう、いいです。早くお休みになってください」
「そうだな。もう少しだけ――」
今、この刹那だけは、少女に優しい世界であってほしい。今だけは、己が彼女を照らす光の全てで、彼女の感じる幸福の全てで在れればいい。
歓喜と、同じ分だけの哀しみを押し殺して、ライは命の音を聞きながら眠りに落ちた。