14
ガリア王宮の回廊は、遥かなる森の頂に築かれた石造の廊であり、まるで天と地を繋ぐ道のようでもある。眼下には深緑の海のごとき森が広がり、その樹々のざわめきが風に乗って、高みの石壁にかすかに届いていた。
王宮へ到着してから一夜明け、団長であるアイクから次の進路を告げられたグレイル傭兵団は出発までの間、中層にある迎賓館にて各々支度を済ませながら束の間の休息を取っていた。国内外の賓客をもてなす場でもある中層は王宮で最も壮麗で、一面の緑が広がる庭園もある。
重なる緑の微風にすら流動する、目に優しい濃淡に包まれた静かな庭で、見覚えのある姿を発見したライは頭を抱えたくなった。
「うーん、予想していなかったわけじゃないけど……」
知っている匂いを辿った先、庭園に佇むのは、団長であるアイクと、ひっそりとした気高さを纏う小さな少女。早々に支度を済ませた二人は他の団員の準備が整うのを待っている様子だった。
かれらはライの登場に気が付くと、片や砕けた口調で。片や息を詰まらせたような表情で迎え入れる。
「ライ。王への報告は済んだのか?」
「ああ。済んだっちゃ済んだけど……」
ちらりとフィリスへ視線を向ければ、少女は優雅にゆったりと一礼する。
「おまえなあ……何か言うことあるだろ?」
戸惑いを隠し、務めて鷹揚な口調で告げると、続けてアイクが首を傾げる。
「知り合いか? フィリスはグレイル傭兵団の新団員だ。ゲバル城にいた頃からよくしてくれている」
「……アイク殿の傭兵団でお世話になることになりました」
「……やっぱり、なにかの冗談だと言ってほしい……」
ため息まじりにこぼし、ふとライの視線がフィリスを捉えれば、青緑の瞳は逃げるように逸らされる。
「魔法の心得がある者はそういない。心強い新入りだ」
「勝手に決めてしまって申し訳ありません。忙しそうでしたので」
何も言わずに言葉を並べる二人に耳を傾けていたが、淡々と告げられていく事実に、ライの顔はみるみるうちに苦虫を噛み潰したようなそれになる。表情の変化を感じ取ったアイクが不思議そうに目を細めて尋ねてくる。
「どうした。何かまずい事情でもあったか?」
「アイク、悪いが……オレは許可できない」
常より低い声で告げて一瞥すれば、鞭打たれたようにフィリスの肩が跳ね、表情が一瞬歪んだ。
「ん? あんたたち、どういう関係なんだ? フィリスの入団にはライの許可をとったほうがいいのか?」
「……っ。……いいえ。ライの許可など必要ありません。私は行きます」
口を噤みかけるが、落ち着きを払った声音でフィリスが喰らいつく。地を見つめたままの手に力が籠められてゆくのが判る。
「フィリス」
ライは重々しく口を開き、優しく、諭すようにその名を呼ぶ。目の前まで歩み寄るとフィリスに向き直った。
「お前はよくやったよ。けど、今からでも遅くない、家に帰るんだ」
目線を合わせるように屈み、肩に手を置く。労りをこめて撫でさすりながら真摯に響く声で告げる。
フィリスはぶるりと肩をわななかせ、首を横に振る。
「嫌です。帰りません。傭兵団の方と一緒に行きます」
顔を上げ、ライの目をまっすぐと見たまま、きっぱりと断言した。
澄み切った蒼と緑を混ぜた目に在るのは確かに意思の光。——奇妙なまでの強さを覗かせる——輝きだ。そのひたむきなまでのまなざしに、ライはため息をつくしかない。ほんと困った性分だ、という言葉は呑み込んだ。
「あのなあ……傭兵団に入るっていうのがどういうことか分かってるのか?」
「分かっております」
ライの問いに、フィリスは毅然と答える。
「本当に分かって言っているのか? 傭兵として戦う以上は敵を討たなきゃいけない。命を奪うって意味でだ」
「でしたら、この手はすでに汚れております。……いいえ。本当なら、もっと前から汚れていなければならなかった」
唇から紡がれたのは、誇りに溢れる強く靭い意志。されど、言の葉を紡ぐ唇は強張って、声が震えることを抑えることさえ出来ていない。
「……おまえのことだ。アイクたちに情が移ったってのも、傭兵団の力になりたいっていう気持ちもわかる。だが刃を向けてくる相手にも同じ重みがあることを……そんな“同胞”の未来を奪う覚悟が、お前にはあるのか?」
「誰かの希望や未来を糧にしてでも、進まなければならないのであれば、進みます」
だというのに。試すような物言いにでさえ、フィリスが食い下がることはない。
そのかんばせを無表情に見据え、ライは観念したように一度、瞼を落とす。
「……分かった。ならこれ以上は何も言わない。好きにすればいい」
抑揚のない凪いだ声は、どこか諦観を帯びている。
「だがな、行くなら……お前との関係はここで終わりだ」
ゆっくりと持ち上げられる瞼の下から現れた鋭い蒼と紫の目には、冷徹さと真摯さと、ほんの少しの挑発。
動揺が隠しきれず、フィリスは目を瞠る。冷ややかなまなざしに晒され、くちびるを引き結んだ。沈黙が落ち、呼吸をくり返す間が、喉を焼く静寂が、長い睫毛を震わせる。
口をついて流れ出た言葉である自覚はあったが、ここまで言えば諦めるだろうと踏んでのことだった。しかし、何も言えず渋い木の実を噛んだような顔で深く俯いた数十秒ののち、——平然を取り繕った表情が湛えるのは、すべての感情を欠いた、昏い双眸。
「——今まで、お世話になりました」
やはり、少女の目に迷いはない。それが誇らしくもあり、残酷でもあった。
◇ ◇ ◇
ベグニオン帝国に再興の助力を請うべく、ガリア国王カイネギスはエリンシア王女の険しい旅の護衛をグレイル傭兵団へ依頼した。ガリアには船がないため、一行は一度クリミアへと引き返し、港を目指すこととなった。
ガリア城を出発して数十日が経った頃、鬱蒼とした森の終わりは、まるで息を飲むような静けさと共にやってきた。
国境を超えた瞬間、空気の質が変わった。見上げれば、同じ青空のはずなのに、どこか乾いている。木々の緑も、少し色褪せて見えた。
かつては自由に風が吹き抜けていたこの地にも、今は鉄の匂いが漂い、聳え立つ古城には見張り兵の影がちらいている。家々の窓は閉ざされ、言葉も、笑い声すら聞こえない。
人々が語る、豊かな緑と済んだ青空の国クリミアは、今や見る影もない。
一行の案内役を買って出たライもまた、傭兵団と行動を共にし、クリミアの現状を目の当たりにする。
かつて少女と共に見た彩豊かな景色は、もう何処にも見当たらない。……色彩を失った色が、あの時のフィリスを彷彿とさせた。
「……はあ」
やがてライはため息をこぼし、人々で賑わっていたであろう集落の跡を通り抜ける。石畳の道はまだ残っているが、その継ぎ目には雑草が生い茂り、手入れのされていない家々は壁が崩れかけ、屋根瓦が斜めにずれていた。
「どうしてこう、あそこまで頑ななのかね……」
「なんだ、結局気にしてるのか」
口に出ているとは思わず、返ってきた声に目を向ければ隣にはアイクがいる。先頭を歩く案内係として数歩先をいっていたのだが、どうやら追い付いてきたらしい。
「そりゃあ、ね」
一瞬言葉を詰まらせ、しかしすぐにゆるい笑みをたゆたわせる。
「だったら、突き放さなければ良かったんじゃないのか?」
ライはぱちりと瞬き、それから困ったように頭を掻いた。
「ああでも言えば少しは考え直すかと思ったんだが……頑固が過ぎるだろ、あれ」
フィリスが自分を追い詰めてまで戦ったとしても、人を殺めるのは傭兵の仕事なのだから当たり前だと言われるのが始末だ。ベオク嫌いが徹底しているガリアのラグズや、親切だが変わり者だと揶揄する村人たちが褒め称えてくれるわけでもない。彼女が得るものは自己満足でしかなく、彼女もそれを分かっている筈なのだ。
「ガリア……いや、ライの為に何かしたいんじゃないのか?」
ライの顔からふと、笑みが引いた。
「頼んでもいないことを、身を削ってまでもか? ……そうだよなぁ、やりかねないから困るんだよなぁ……はぁ……」
褒める際、面映ゆそうに視線を逸らすフィリスの姿が脳裏を過り、ライはぎゅっと眉間を引き絞った。
「オレは、ただ、あいつとの時間が、――」
言いかけて、我に返ったようにハッと息を呑んだ。
「あれ、何言ってんだろ。今のナシな!」
「……悪いが、うちも戦力不足だ。フィリスが望んだ以上戦うなとは言えないし、自分の身は自分で守ってもらうのが常になる」
戦場で覚えるのは、武器の振り方と命の終わり方。誰かの命を奪った夜、彼女は眠れるのだろうか。誰かの血を浴びた朝、フィリスとして目覚めることができるのだろうか。
彼女が是とし進む、もう戻れない道を、ライは憂うことしか出来ない。
「……ああ、分かってる」
「……だが、出来る限り気にはかける。だから、ひとまず預かってもいいか?」
ぶっきらぼうでありながらライとフィリス、双方を案ずる、まっすぐでまぶしげな声に、ライはくすぐったい感覚を抱いた。
「……感謝するよ、アイク」
——二人で過ごす時間が、いつまでも続けば良いと思っていた。
焼きたてだという焼き菓子をひとつつまんで、笑みを浮かべる姿を見るのが好きだった。ふとしたことで拗ねて、すぐに機嫌を直すところも。捕ってきたは良いものの、焼きすぎた魚に小言を言って、それでも全部食べてくれるところも。そのすべてが愛おしかった。愛おしく、だからこそ終わってほしくはなかった。
眠れないと溢す少女に寄り添いながら過ごす夜は、もう二度と来ないのかもしれない。
(行き先分かってるのかねえ。分かっているんだろうけど……)
太陽が傾き、赤金の光が差しこむ頃。傭兵団は小高い丘の斜面に野営を設け始めた。
ライは野営地の全体を見渡せる位置に立ち、傭兵団の営みを眺める。ふいに、風向きを確認しながら乾いた薪を組んでいるフィリスと目が合った。——しかし、その視線は一瞬にして風のように逸れて、もう戻ることはなかった。まるで、最初から見ていなかったかのように。
残されたのは、胸の奥に生まれた微かなざらつきだけだった。背を向けたままの小さな背中が、やけに遠く見える。
(目も合わせてくれなくなった……)
何度も謝罪しようと思った。すれ違ったあの日、すぐに謝れば良かった。今となってはそのタイミングを逃してしまったことが悔やまれる。
初めて会った時もそうだ。感情を出さず、人を拒絶し、跳ね除ける。思えば、ベグニオンにいた頃どういった生き方をしてきたのかを知らないが、利口なようで向こう見ずな跳ねっ返りな娘であることは確かだ。
そして、そんなお馬鹿な彼女が、ライは嫌いではない。
(いつ仲直りできるかなあ)
些細な喧嘩は今までにも何度かあった。幸いにも、彼女との旅は長い。
もう一度フィリスを見遣れば、小さな焚き火の炎が、少女の横顔を柔らかく照らしていた。膝を抱えて空を見上げるフィリスの姿をひっそりと焼きつけて、ライは静かに目を閉じた。