15
カントゥス城という場所は、明けない夜だった。闇に潰され、昼や夜の区別など、意味を持たない場所であった。絶望こそが相応しく、絶望そのものが佇んでいる。
城の地下に広がる牢屋は、時の重みをそのまま飲み込んだような、陰鬱な空間だった。石造りの壁は分厚く、湿気に覆われじめじめとした空気が肌にまとわりつく。鉄格子の錆びた扉が無骨に並び、そこから差し込むかすかな光が、牢の中に影を踊らせている。
空気には鉄と腐敗のにおいが混じっており、鼻をつく不快な重たさをもって漂っている。遠くから他の捕虜の呻き声や、看守が鉄の鍵を鳴らす音が時折反響し、不安を煽るように壁に跳ね返ってくる。
鉄格子越しに見える牢の中はもはや寝床とは呼べないほどに汚れており、壁に刻まれた無数の傷跡が、ここに捕まった者たちの絶望の証を物語っている。
沈黙と闇に支配されたこの牢屋から捕虜として囚われているクリミアの正規兵を救い出し、傭兵団の戦力強化をはかる提案をしたのはライだった。
……あれから、ライとは一言も言葉を交わしていない。彼の姿を目にするたび、胸がかすかに痛む。彼と同じ空間にいるのは気まずく、各所への連絡係として奔走する彼がこの作戦に同行しなかった事に、内心胸を撫で下ろした。
(——今は、捕虜の解放が先です)
雑念を振り払うように首を振り、フィリスは目の前の難題に集中する。
静寂の中、暗闇を利用して奇襲をかけ、鍵を奪うことが先決だと傭兵団の参謀セネリオは言っていた。
地下牢に剣戟の音が紛れる。先行する部隊の攻撃により侵入者の存在は明らかだ。ならば、とフィリスは馬から降り、馬が鳴らす蹄鉄の音で看守の注意を惹きつけながら、背後へと忍び込む。
次いで、魔導書の頁をなぞるとフィリスの指先から淡く青白い光が走る。魔力が集束し、耳をつんざくような高音が空間を切り裂いた。
手から放たれた稲妻は生き物のようにうねりながら虚空を裂き、標的に向かって一直線に突き進む。直撃の瞬間、轟音が響き渡り、地面が震える。眩い雷光の中で、敵は一瞬にして光に呑まれた。
煙が晴れたあと、そこには焦げ跡と、チャリーン、と鍵束が跳ねる音が響いた。
目当ての鍵束を拾う。その音は、激しい戦闘が行われている地下牢の中でも異様に大きく鳴った。
フィリスはその足で鉄格子に近づくと、束の中から一本を選び取った。鍵を差し込み、力を込めて回す。軋むような音の後、錠が重たく外れた。
扉を押し開く。軋んだ扉が音を立てて開かれると、囚人は一瞬戸惑ったように目を瞠り、フィリスを見つめる。
「……フィリス?」
ふいに名前を呼ばれ、牢の奥に目を向ける。
「……っ!?」
そこに囚われていた人物を認めた途端、フィリスは思わず息を詰まらせた。鉄格子の向こうに座り込んだ男の姿を目にし、時が一瞬止まったように感じた。
座り込んでいたその男は、まるでこの底冷えした空間に不似合いなほどの存在だった。鉄格子越しの薄明かりに照らされ、彼の長い黒髪が滑らかな絹のように光を受けて揺れている。今は無造作に束ねられてはいたが、その乱れさえどこか優雅さを漂わせていた。
彫刻のような顔立ちは荒廃した牢屋の中でも尚、その美しさを失っていなかった。睫毛は長く、彩度の高い空のような碧の瞳には、どこか儚げな光を宿す。姿勢には品格を感じさせ、まるでここが宮廷であるかのような佇いを崩さない。纏う空気には不思議な威厳があり、囚われの身でありながら、彼を見た者はあまりの美麗さに思わず言葉を失うだろう。
どのような状況に置かれようと、決して屈していない。――見間違えるはずもなかった。
「……ペルシス、公……? どうして、貴方が、此処に……」
声が震えた。鍵束の重みが、今は指先に焼けつくように感じられる。フィリスにはこの男がこの場所にいることが信じられなかった。かつて、帝国の誰よりも公明正大で、巧みな話術と微笑みで国民から圧倒的な支持を寄せられ、公正中立な政でその地位を確固たるものにした男が、どうして。
男はおもむろに立ち上がり、ゆったりとした歩みでフィリスのそばまでやってくる。
「巡礼僧として傷ついたクリミア兵の治療を行なっていたところを連行されまして。……ですが、それはこちらの台詞ですよ。……逃げ延びれたのだと、思っていました」
彼の口が紡ぐ言葉の意味を察し、フィリスはばつの悪い顔をして目を逸らす。
「……いえ。貴方の仰る通り、逃げ延びることはできました。その先で、ガリアへ貢献するための方法を考え、……今は傭兵をしております」
男のその瞳が、確かにフィリスを捉えた。深く、静かに。しかし、そこに浮かんだのは驚きや憤りではなく、懐かしさと静謐な哀しみが綯い交ぜになった色だった。
「貴方は、何処までも自分の身を削るのが得意なようだ。……あの時も、そうでしたね」
顔を強張らせ黙したままのフィリスに、柔和な笑みが向けられる。
「……その後、変わりはありませんか?」
「……はい。お陰様で、扱いには慣れてきました」
男の目は穏やかに、フィリスの左肩へと移されていた。晒しているわけでもないそれを隠すかのように、フィリスは左肩をやんわりとさする。
「それなら良いのです。……さて、彼にはなんと説明しましょうね」
底の知れない空色の目に笑みを湛え、噛んで含めるように、男は音を紡いだ。彼、という単語にひくりと喉が震え、フィリスは虚を衝かれた顔をした。
「お、お待ちください……! ……その、……私と此処で会ったことは、あの方には黙っていてほしいのです……」
堪らず、フィリスは声を上げるが、紡がれる音は徐々に絞り出すようなか細いものへと変わっていく。
「……彼は、今でも貴方のことを案じていますよ。……それでも、ですか?」
男は悲しげな笑みを深めて問い返す。
「……だからこそ、です。……貴方が黙ったままでいてくだされば、に……、あの方も、余計な気を回さずに済みましょう」
口にしかけた、かつて呼び慣れた呼称を苦く噛み潰し、押し黙る。
「……酷い人ですよ。貴方は」
穏やかでありながら凄みのある声が静寂を打つ。
「あれだけ鮮烈に焚き付けておきながら、姿を眩ませ、挙句自分のことを考えるなという。……まるで、消えない疵を刻み付けるかのようだ」
ゆるく、男は笑みを深くする。核心をついた空の目が眇められた。
「別れは、……死は、人がもっとも強烈な感情を灯す炎。貴方は、停滞し、立ち止まるだけの彼に、火を灯した。……けれど」
その言葉は淡々としていながら、どこか沈みこむような重みがあった。男は眉宇を曇らせ、そっと嘆息した。
「……貴方は、本当の意味で共に生きるということがどういうことなのかを、まだ知りません。貴方の往く道の先に真の共生が、あると良いのですが」
男の声は憐れんでいるようにも、詰っているようにも聞こえた。
フィリスがそろりと顔を上げると、男はやさしく笑いかけてきた。
まだベグニオンにいた頃、無茶をすればこんな顔で穏やかにたしなめられた。あのころはただ純粋に懐いていて、「ごめんなさい」と素直に謝ることができた。
もう、昔のような関係では無いというだけで、随分と遠い存在に感じる。
「……肝に銘じておきます。どうか、早急にこの場からお逃げください。私はこれで——」
「お待ちなさい」
ひらりと外套を翻すフィリスの腕を、白くほっそりとした手が掴む。驚くほど優しく、それでいて確かな力を宿していた。
「……いかがされましたか?」
「これを持っておゆきなさい。餞別です」
男は服の内側から細い銀鎖を引っ張り出す。
しゃらりと揺れる、古めかしい銀の鍵。
全体にあしらわれた繊細な彫りこみは年代を経て薄れているが、飾りの中央部に嵌めこまれた紅水晶は瑕ひとつなく夕焼けの空のごとくきらめいている。
フィリスは知らず息を呑んだ。きらりと瞬く宝玉は、妖しく微笑む瞳のようで得体が知れない——。
「宝玉……ですか? そのような高価なもの、頂くわけにはまいりません……!」
「いいえ、違います。これは、そうですね……篝火、ですよ。魔法を宿した装飾品だと思ってくだされば。……貴方に、よく似合うでしょうから」
そう言って、男はそれをフィリスの首にかけた。胸元に落ち着いた石は、まるで心音に合わせて微かに脈打っているようだった。
「フィリス。貴方に、女神のご加護があらんことを」
男は最後にそっとフィリスの両手を取ると、優しく包みこみながら祈りの言葉を口にする。
「……ペルシス公も、道中お気を付けください。貴方に何かあれば……それこそ、あの方が嘆き悲しむでしょうから」
「お気遣いありがとうございます。……息災を祈っていますよ」
少女の手をそっと降ろし、男はゆったりと首肯する。一礼して——本来ならば『ペルシス公』はフィリスよりも身分が上なので、礼をすることは作法に反するのだが——通路の先へと向かう男の背中を見つめ続けた。
男が無事地上へと逃げおおせたのを確認してから、フィリスは再び鍵束を掲げ、順に扉へと向かっていく。
カチャリ、キィ。一つ、また一つと開かれてゆく檻。そのたびに、地下牢の空気がわずかに動き出す。長く閉ざされていた命たちが、再び外の世界へと踏み出す、その瞬間を見届けて、フィリスも地上へと戻った。
ざあっと清らかな風が吹き抜けていく。長く忘れていた空の広さは、たとえあの頃の青さでなかったとしても、牢獄の底にいた者にとっては、自由の象徴のように眩しいものだろう。
フィリスは風で広がる髪を抑え、救出された捕虜たちがアイクに頭を下げる様子を遠目から見つめる。——どうやら彼は身分を隠しているようだ。風に揺れながらその美しさを主張する黒髪の“巡礼僧”を眺め、じわりと滲む罪悪感に胸元の重みを握りしめた。
確かに、自分の行動は軽率で愚かだったかもしれない。
共に笑い合いたい。支え合いたい。同じ景色を見つめたい。……ただ隣にいたいと願うだけなのに。そんな綺麗な言葉ばかり並べておきながら——誰も彼も、傷付けることしか出来ていない。
(……ライとも、いずれは他人のようになっていくのでしょうか)
庇護という優しさを貰い受けて尚、理想という名の空へと飛び出したというのに、理想ばかり高くて、器が追いついていない。
「……ままならないことばかりですね」
ぽつりとひとりごちたそれは、風に攫われる。
茫漠たる世界は、矮小な人間の力でどれほど動かせるのだろうか。
——それは、まだ、誰にも分からぬことだった。