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06



 時は移ろい、季節は変わる。
 彼女と過ごした日々を振り返れば、長かったようにも短かったようにも感じる。
 暗い冬を越えて、短くもまばゆい歓びの季節が帰ってくる。ライがベオクの少女を側に置いて迎える三度目の春だった。
「綺麗です」
 陽は一番高いところから少しだけ傾きかけていた。
 明るく澄み渡った空、やわらかな翡翠色に染まった野山。木々の枝先で丸々と膨らんだ蕾がいっせいに弾けていた。
 春の柔らかさを感じさせる一帯には、息を呑むほど鮮やかな色彩が一面を染めていた。地を覆いつくすのは花の群生。そこには色とりどりの花がこぼれるように咲き乱れ、春の風にやわらかく揺れている。
「とても綺麗です」
 花の甘く瑞々しい匂いに乗せて紡がれる、吐息を洩らすようなフィリスの声は春のように優しい。
「やっぱり春を感じるならクリミアだな」
 昼下がりの陽射しに草木が輝き、ライの目を眩ませる。
「ここに咲いている花は全て桜草ですね。暑さと湿気に弱い花だと、昔読んだ本で見ました」
「詳しいな。ガリアではまず見れない花ってことは、此処に来て正解だったということだ」
 春の陽がきらめく花畑を、服の裾を翻してフィリスが歩く。頬を仄かに紅潮させ、時折ライを振り返る瞳には光が溢れていた。
 ――この三年を振り返ると、彼女の成長がよくわかる。
 乱雑に切られた後短く整えられた髪はわずかに癖をつけて鎖骨の位置まで伸び、身長はライの肩に頭が並ぶくらいにまでの高さになっていた。まだあどけなさの残る清艶は蕾のようではあるが、損なわれることのない穏やかでたおやかな様は、気高く咲き誇るであろう将来を予感させる。
 きらきらとひかる彼女の双眸をもっと見ていたくて、彼は自然と少女の隣に並んでいた。
「来て良かっただろ?」
 視線を落とすライに、フィリスはくすぐったそうに微笑んだ。
「はい。最初、クリミアへ行こうと誘われた時は何事かと思いましたが……ライも風流ですね。春を楽しみたいだなんて」
「まあな。クリミアは来る度に四季の移り変わりによって風景が変わるからさ、そういうのを見るのが好きなんだ」
 ライの言葉を、少女は同意するように小さく頷きながら聞いている。
「分かります。フィリスのいたフロンス領はノール地方の近くに位置していたので一年の大半が雪でした。今思い返すと、とても味気ない景色です」
「はは、白ばっかじゃそう思うよな。それに、寒いよりあったかい方が良いだろ?」
「そうですね。春のおひさまのあたたかさはライにとてもよく似ていて心地良いです」
 一体どこでそういう言葉を覚えたのだろう、まるで口説き文句ではないか。と思考を巡らせても埒があかなかったので、くしゃりと砂埃――と本人は言うが灰がかった亜麻色――の髪を撫でると、フィリスの唇が花のように綻ぶ。
 気が抜けると自称に己の名前を使って話すのも、嬉しさをぎこちなくとも表現するのも、本来の彼女の顔で、ライの側では年相応に振る舞えるということを彼女は覚え三年の間に身につけていた。
「ライは花言葉というのをご存知ですか? 桜草には『青春の美しさ』でしたり、『運命を開く』など、青春を謳う意味が多く込められているそうです」
 ベオクの貴族には美しい花にさまざまな思惑を託して相手に贈る風習があると聞いたことがある。ときには同じ種類でも色や咲き合いによっても意味が異なるらしい。
 ラグズの間では勿論浸透しておらず、なんともまどろっこしいやりとりだとライは思うが、貴族にとっては教養の高さを誇示する優雅な嗜みのひとつであった。
 桜草に秘められた言葉は、人生の春を、希望と理想を抱く若者を尊ぶ気持ち。
「へえ、知らなかった。そういうの知ってると、もう少し楽しめたりするのかもな」
 穏やかに語られたこれに、眼を花に向けたまま、フィリスが小首を傾げる。伸びた砂埃の髪がその首筋を遊びながらさらりと流れた。
「どうでしょう。花を介して言葉を伝えるなど、伝えられる側ももどかしい気もします。きちんと伝わらなければ意味などありませんから」
「あはは……そりゃ正論だ」
 甘い若葉の香りのする風がどこまでも吹き抜けるような春空の色に横顔を与えながら、ライは気配でしかないかすかな笑みを吐息とともに大気に溶かした。
「ですから、ライ」
 フィリスは青緑の瞳をくるめかせ、はにかむように微笑んだ。穏やかでうららかな春の乙女は、きっとこんな感じなのだろうと、ライは柄にもなく思う。
「フィリスは、己の“青春”をガリアの地で、ライと過ごせることを心から幸運に思っております」
 上目遣いに、甘えるように、そんなことを言ってくる“保護者”として見守ってきた娘に、ライは苦笑しながら諸手を挙げた。
「まったく、オレが連れてきたっていうのに、連れてこられたみたいだ。将来人を弄ばないか、オレは今から不安だぞ?」
「……ライはいつも茶化すんですから」
 いつもしてやるように屈んで視線を合わせれば、桃色の頬がむくりと膨らんだ。あまりにも子どもらしい表情に、ライは微かな笑い声を洩らした。
「あんまりにも真っ直ぐ伝えてくるもんだから、照れるんだって。かわいいお嬢ちゃんからのものだったら尚更な」
 戦うことしか知らぬ武骨な掌で小さな顔を包めば、フィリスは口許に手を遣り、楽しげにくすくすと笑う。
「ライの方がよっぽど誑しこむのが上手かと思いますが」
「ん? んん? ……もしかして、オレから覚えてるのか、そうなのか?」
「そうかもしれませんね?」
 熱い頬に触れ、額を重ね合わせ、フィリスは祈るように目を閉じた。
「ライ」
 唐突に名前を呼ばれ、ライは鼻先が触れそうな距離からフィリスを見遣る。少女の瞳を閉ざした顔からは感情を読み取れず、その耳に心地よい澄んだ声は淡々と言の葉を紡ぐ。
「たとえどんなことがあっても、フィリスはライの前で己を偽りません。ガリアを裏切りません。この花に誓います」
 この三年、背伸びをしても、無理をしても、なんともならないものが何度も目の前に立ちはだかったというのに。それでも、唐突な宣言は純粋すぎる意思を秘めている。
「私の青春を、どうか貴方に捧げさせてください」
 桜草の花が清かに香る。灰がかった亜麻色の髪がたなびき、ライの視界をふわりと覆った。刹那に目に焼きついた空はどこまでも青く、輝いていた。
「――なら、オレも誓おう」
 ライの口から放たれたそれに、フィリスがぱちくりと瞬きする。
「おまえがガリアにいる限り、オレはおまえの味方であることを。おまえの良き理解者であり、お前を守る戦士であることを、この花に約束する」
 間違いなく、心からの言葉だった。
 ベグニオン暦645年――春空の下の慎ましやかに囁かれる密かな誓いは、花開く微笑の余韻を残し続けていた。



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