07
平穏という均衡を、辛うじて保っていただけにすぎない。
大陸東側に位置するデイン王国が、ついと国境を越えクリミア王国の王城を奇襲したという一報にガリア王城は騒然となった。
ライが王城に出向くと、王座の元に老臣をはじめ、諸部族の重鎮がほぼ顔を揃えていた。下座に就こうとしたライに、ジフカが無言で視線を送る。
「来たか、ライ」
王にまで声をかけられたら従うしかない。訝しげな老臣たちの視線が突き刺さる。ライは溜め息を呑み込み、王の隣の席まで赴いた。
「クリミア王国は侵略行為を受け戦争状態に入った。しかしデイン軍は勝利宣言を出したと」
隣り合うクリミア王国がラグズ協調派が帝国元老院から分離して国を築いたのに対し、デイン王国は反ラグズ派が分裂し国を築き上げた。体制を異にする両国の関係は、建国以来反目し合っていた。ガリアとて決して無関係ではなく、デイン王国は過去にガリア攻略の為クリミア王国へ侵攻を仕掛けたこともある。
森林の如し深緑の獣を白い花が華を添える国章を背に王座へ座る獅子王は、厳しい表情で顎を撫でた。
「次にデインがどう動くか」
カイネギスは顔をしかめた。
デインの勝利宣言は、クリミア王族の壊滅を意味している――最悪の事態だ。
「クリミア王国との国交、しいては国王との親交に心血を注ぎすぎたのが仇となりましたな、王。これではガリア侵攻への絶好の口実になりましょうぞ」
重鎮の一人、中年の男が呟いた。その横で老臣の男が頷く。
「僭越ながら、これを機にベオクとは手を切るべきなのでは」
輪唱のごとく同意の声が上がる中で、ベオクへの不信感もはち切れんばかりに膨れ上がる。鮮烈な陽光に照らし出された男たちの目には、怒りと憎悪が黒々と光っていた。
かつて己が受けた仕打ちを思い出しているのだろうと、ライは眼前で展開される光景をただ静かに見つめる。
「――王よ」
王に問いかける声がこだまする。カイネギスは、勇猛なる眸を細めた。
「国境の警備を固める」
ことを構える覚悟と、一抹の希望を秘めた言葉を、冷静な声が告げた。
「暫くはデイン軍の動向を伺う。国境を侵すようであれば――容赦はいらぬ、排除せよ」
応、と男たちの声がこだまする。張り詰めていた空気が刹那に塗り替えられ、幾人かが立ち上がって足早に出て行く。幾許かの不満を残す老臣たちもその中に含まれていた。残った者たちの、特に若い者を中心に具体的な話し合いが始まった。
ライもその輪に加わり、中心となって熱を帯びたやりとりに耳を傾けながら指示を出していく。かすかに、ほのかに。穏やかなだけであったオットアイに薄氷めいた冷ややかさを過ぎらせて。
鍵を開けて戸を開け放つと、驚きに染まった眼差しが出迎えた。
ほんの少しだけ小首を傾げながらゆるく淡く弧を描く少女を目にしライは苦い唾を飲み下した。そのまま椅子に腰掛けると、フィリスは慌てた様子で勝手場に向かう。
浮き上がった膝から読みかけの分厚い本が落ちた。
「随分お疲れのようですね。今お茶を淹れます」
「いや、今日はいい。話があって来た」
眉間を引き絞り、フィリスは振り向いた。
ライの表情の意味を理解したのか、その貌はみるみるうちに硬くなっていった。
「何か、あったのですか?」
問いかける声は、とても平坦なものだった。少女のどこまでも静謐な青緑の目と、青猫のどこまでも澄み切った目が、緊張が満ち満ちるその場所で交錯した。
「……クリミア=デインの間で戦争が始まった」
「戦争、ですか」
その声に動じることもなく、ただ静かに、ライを見据えたままのフィリスの目が鋭くなる。硬質で透きとおっているだけの表情は、常と変わらぬものであった。ライは頬杖をつき、笑顔になりきらない表情を浮かべた。
「あまり驚かないな?」
「いえ、驚いていますよ。あまり実感が湧かないものですから」
少女の細い喉が小さく鳴った。やわく指を組んだ両手にほんの少し力が込もる。
「しばらく、クリミアには行けませんね」
微塵も表情を変えずに、ほんの少しだけ肩をすくめてみせる少女のその眼の前で、ライはどこか苦い微笑を零した。
「平和な内にあの場所に行けたのは幸運だったな」
ほのかな苦笑と、ほのかな疲弊。彼女が言の中に真意を見出してしまっているがゆえの、それを主張するしかない責務と諦観は、次に続く言葉を吐き出させるには充分だった。
「オレはひとまず隊を率いて国境警備にあたることになった」
白い手がより強く握られる。ライはフィリスのまなざしから視線を逸らし、淡々と続けた。
「暫くここには顔を出してやれなくなるけど、くれぐれも国境付近には近付くなよ? デインがどう動くか分からない今、危険だからな」
「……戦に向かうわけでは、ないのですね?」
「デインの動きが分からない以上こちらから手を出すことはしない。仕掛けてきたら――別だけどな」
ふつりと会話が途切れる。ライは立ち上がって、両手を組んだまま黙りこくるフィリスの繊手をそっと包みこんだ。
砂埃の色に煙る睫毛がきらめき、感情の読めない瞳が上を向く。
「そんな顔するなって。心配しなくても、ガリアの守りは万全だ」
「私は、ライを心配しているのです」
思いがけない言葉だった。戸惑うライに、フィリスは両手で縋りついた。
「……ごめんなさい、ライを困らせたいわけではないのです。心配なんておこがましいくらいに、ライが強い戦士であることくらい、分かっております。ですが、あまりにも急すぎて、頭が追いつかないんです」
言い募りながら、フィリスの顔がわずかに歪む。彼女は唇を震わせ、ライの胸に額を押しつけた。
すみません、と彼女は呻いた。亜麻色の髪がこぼれ落ちる。
ライは息を吸いこみ、腕の中にフィリスを閉じこめた。やわらかな肢体を壊してしまわぬよう、優しく抱き締めた。
「フィリスも言ったように戦に向かうわけじゃないから、死んだりしないさ」
話し合いの末、少数の精鋭部隊で国境の警備にあたることになった。ライは王から直々にその部隊の隊長として指名された。もちろん、彼に否と答える理由はなかった。
――名残惜しいと、思う資格などないというのに。
言葉よりも雄弁に自分を案じる腕を振り払い、この存在を置いていこうとしているのは、紛れも無い事実なのだ。
「オレは戦士だ。ガリアの盾となり、ときには矛とならなくてはいけない。それがオレたちの務めであり、誉れなんだ」
戦士たる男は、どこまでも他人事のように、淡々と言葉を紡いでゆく。
抱擁をゆるめて青緑の眸を覗きこむと、フィリスは睫毛を伏せた。
「――はい」
聞き分けの良い子供のような声で認める音は落ち着きを取り戻していた。だが、睫毛に隠された瞳は仄かな怜悧さを湛えているようにもみえた。
それが少しおそろしくなって、掛ける言葉を間違えてはいないかと、ライは武骨な指先を伸ばしていた。褐色の掌に少女の顔がやすやすと包みこまれる。
「約束する。また此処に戻ってくるって」
ささやくと、フィリスは緩慢に瞼を上げてライを見つめた。どんな表情を作ればいいのかわからず、彼は困って微笑んだ。
「そんで、いつになるかは分からないけどさ……平和が訪れたら、また一緒にクリミアに行って花を見よう」
フィリスはきゅっと眉根を寄せ、「いけません」と呟いた。
「『絶対』が足りないです」
「……悪かった」
ライは苦笑し、父が娘にするそれのように、フィリスの額に口づけた。
小鳥が羽を交わすように軽く触れると、フィリスの目許がわずかにゆるみ、ひんやりとした印象はそのままに、その纏う雰囲気がやわらかくなる。
「手慣れていますね。やはりライは誑し込むのが上手です」
「……あのな」
「あまりにも帰ってくるのが遅いと、ライの交遊経歴が洗いざらい暴かれているやもしれません」
「……だから、そういうのじゃ。そもそも、そんな脅し文句、どこで覚えたんだよ……言う相手間違えてるし」
無事に帰ってこないと許さない。可愛らしい脅し文句を口に少女は首を擡げた。開口より降り注ぐ陽光に曝されて、擡げられた少女の首筋の、その白さと儚さが目映く映える。
「約束、ですよ」
煙るようなまなざしで微笑まれ、隠され、ライはとうとう最後まで気付くことが出来なかった。
この刻まで、彼女は一切、『待っている』とは言わなかったのだ。