03



「え、ちょ、ちょっと待ってください。俺関係無くないですか」
 正直連れていかれても困る。何回も言うが今日は授業に遅れるわけには行かないのだ。それにそもそも俺は彼らを邪魔した覚えも無いし、どちらかといえば被害者である。何故連れていかれなきゃいけないのか。先輩を見つめてそう抗議するが、彼がまともに聞き入れてくれるはずもなく。
「この一年とつるんでいた自分を恨むんだな」
 そう吐き捨てられた。こうなることは藤咲と同室になった時点で決まっていたということか。理不尽な言葉に頭が痛くなる。そして言い返す間もなく、俺は隆一先輩に腕を掴まれてそのままずるずると寮に向かって引っ張られた。いやいやいや、まずいって。
「は、離してください……先輩方の邪魔なんてしませんから……!」
 自分は貴方たちの敵ではない。そうアピールするが隆一先輩は一切俺を見ない。藤咲は知らないが、俺は全く彼らの邪魔をするつもりなどないのに。しかし全く聞く耳を持ってもらえないので、とりあえずぶんぶんと掴まれた腕を振り回したり足で踏ん張ってはみるが、俺がひ弱なせいか何の抵抗にもなっていなかった。くそ。
「水瀬もそう言ってますし、俺だけでいいじゃないですか! 離してやってくださいよ!」
 逞先輩に胸ぐらを掴まれたままの藤咲も、隆一先輩に向かってそう叫ぶ。そんな俺達を鬱陶しく思ったのだろう。隆一先輩は足を止めて、腕を掴んだままくるりと俺の方へ身体を向けた。突然止まった彼の動きに、つられて俺も抵抗を止める。ぱちり、と瞬きをした。その瞬間だった。
「うっ……!」
 視界が真っ白に弾ける。一瞬で全身の熱が頬に集まって、思わず空いた手で頬を抑えた。ぐわん、と脳みそが揺れる感覚に吐きそうになる。口の中が切れたようで、唾液が血の味がした。――彼に思い切り顔面を殴られた。そう気付くには時間がかかった。
「いちいち抵抗してんじゃねえ! てめえらに拒否権なんてあるわけねえだろ!」
 彼の怒号と共鳴するように桜の花びらが舞う。「てめえ!」という藤咲の怒鳴り声を聞きながら、俺は隆一先輩を睨み返した。何でこんな綺麗な場所で殴られなきゃいけないんだ。腹が立つ。衝動に任せて思い切り殴り返したくなるが、そうしたところで数倍返しにされることは容易に想像が出来るので、溜め息を吐くだけで留めた。仕方がない。もうこれ以上殴られたくないし、大人しく付いていくことにする。
「ふん、最初からそうしておけばいいんだよ」
 逞先輩が勝ち誇った顔でそう吐き捨てるのを横目で見ながら、隆一先輩に再び腕を引っ張られたときだ。

「おいおい、俺の可愛い慧ちゃんに傷付けんなよ」

 突然誰かに後ろから抱きしめられた。ねっとりとした声。背中から伝わる微かな熱。第三者の乱入に、この場にいる全員の足が止まる。甘ったるい匂い。毛先が赤い黒髪が俺の頬をくすぐった。
「彼方先輩……」
 彼の名前を呼べば、満足気に笑った彼はするりと俺の頬を優しく撫でる。そして別の手で俺の腹部をぐっと後ろに引き寄せた。いやらしい手付きについ昨日の行為を思い出してしまって、思わず「ひっ」と声が出る。股間を押し付けないでほしい。そう思いながらも抵抗せずに周りを確認すれば、どんどん隆一先輩と逞先輩と――藤咲まで、不愉快そうに顔をしかめていた。
「何でてめえがここにいるんだよ……」
「何で、って……風紀委員長なんだから騒ぎがあれば駆けつけるのは当然だろ」
 警戒しているのだろう。唸るように発せられた隆一先輩の言葉。それに対して彼方先輩は俺を抱きしめながら飄々と返す。いつの間にか隆一先輩の手は離れていた。まあ、風紀委員長だしな。騒ぎを止めに来るのは当たり前だろう。風紀委員長だし……風紀委員長……
「――って、え!?」
 風紀委員長って、誰が!? この人が!? 俺がイメージする風紀委員長とこの場にいる風紀委員長が全く噛み合わなくて、なかなか頭が回らない。風紀委員会っていうのは学園の風紀を守る委員会で、風紀委員長はそれをまとめるリーダー的な存在だと捉えていたが、この学園では意味が違うのだろうか。だってどこからどう見てもこの男は風紀を守る側ではなく、風紀を乱す側である。そもそも風紀委員長は突然廊下で新入生を襲わない。驚きすぎてぱくぱくと口を開閉しながら彼を見つめるが、その風紀委員長はそんな俺を見て楽しそうに笑うだけだった。
「それで? 嫌がる新入生を連れて何をするつもりだったんだ?」
 俺の考えていることは全部聞こえているはずなのにそれを無視して、彼方先輩は俺の肩に顎を乗せながらからかうように隆一先輩に問いかける。そんな中逞先輩は藤咲から手を離し、隆一先輩を庇うように前へ出た。
「別にお前には関係無いだろ。保守派ならともかく中立派なんだから」
「んー、まあ、確かに風紀は中立派名乗ってるけどな。でも一応生徒会側だし? そもそも風紀なんだからどの派閥であろうと騒ぎを止めに来るのは当たり前だろ」
「チッ、普段全部部下に仕事任せてるくせに、こういう時だけ風紀の名前使ってきやがって!」
「はは、使えるもんは使わねえとな。……ま、お前らが何を企んでんのか知らねえが、今回は諦めるんだな。生徒会だけじゃなく、風紀にまでフルボッコにされるのは嫌だろ?」
 俺の肩に乗せているせいで先輩の顔は見えないが、声の調子で相当隆一先輩を煽っていることは分かる。きっとニヤニヤしながら話しているのだろう。煽られた隆一先輩はギリッと歯軋りをし、そのまま桜の木に拳を叩きつけて怒りをぶつけた。
「てめえ、覚えてろよ……舐めた口利けるのも今のうちだからな」
 そう彼方先輩をぎろりと睨みつける隆一先輩だが、彼方先輩はそれに全く動じない。沈黙が続く。暫くして、隆一先輩は諦めたように深く溜め息を付いた。
「……行くぞ。生徒会を呼ばれても困る」
 そう言いながら隆一先輩は校舎に向かって歩き出す。そんな彼の背中を見て、逞先輩は「は、はい」と焦ったように彼を追った。どんどん遠くなっていく背中。
「……」
 それを見て、彼方先輩は何を思ったのだろう。俺から身体を離して俺の前に立ったと思いきや、「おい、隆一」と彼を引き止める。
「お前さあ、元々横暴なところあったけど、ここまでじゃなかっただろ」
「……」
「何焦ってんだよ。お前らしくねえ。……あまり、溜め込むなよ」
 まるで子供を説得するような優しい声だった。その言葉を聞いて隆一先輩は足を止め、ゆっくりと振り返る。風に靡く金髪が太陽の光に反射して眩しかった。
「俺だって、何でこんなに必死になってんのか分かんねえよ。どうでもいいって思ってたはずなんだ、本当は」
 先程までとは打って変わって、落ち着いた声色。涙なんて一切流していないのに、何故か隆一先輩が今にも泣きそうに見えて、部外者なのに声をかけそうになる。
「でも俺は、あいつを――永久を許せない。だから、あいつの味方をする奴らは全員殺してやろうと思ってる」
「……隆一」
「無論、お前も例外じゃねえからな。彼方」
 それだけを伝えて、彼らは去っていく。寂しげに細められた隆一先輩の目が印象的だった。彼の背中から目が離せない。結局俺は見えなくなるまで隆一先輩の背中を見送っていた。
「はあ、何なんだよ本当」
「……彼方先輩」
「ん? ああ……悪いな。気にするな」
 励ますようにぽん、と頭に手を置かれてそう言われるが、気にするなと言われても気になってしまう。隆一先輩と会長が仲が悪いらしいのは入学式の騒動で薄々勘付いてはいたが、それなのにお互い名前で呼んでいるのは何故なのだろうか。彼方先輩だってそうだ。対立しているように見えるが、彼方先輩が隆一先輩を見る目には別の意味も含まれている気がする。戸惑いや心配、友情。何とかしたいという気持ち。いつも余裕を感じさせていた彼方先輩のこんな姿を見るのは初めてだったから――出会ってまだ二日しか経っていないが――、こっちまで戸惑ってしまう。



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