05



「ま、間に合った……っ!」
 キーンコーンカーンコーン。チャイムが鳴り終わる直前に俺達は勢いよく教室の扉を開けた。滝のように流れる汗。乱れる呼吸。喉の奥やら横腹やら至るところが痛い。つい足がもつれて転びそうになったところを藤咲に助けてもらい、そのまま藤咲に引きずられるように教室の中へと入る。辺りを見渡せば、担任はまだ来ていないようだった。しかし、当然集まるクラスメイトの視線。……結局目立ってしまったが、まあ、仕方がない。遅刻して担任に目を付けられるよりはマシだろう。藤咲と離れ、俺はぜえぜえと肩で息をしながら自分の席に鞄を置いた。
「早速色々噂になってるけど大丈夫?」
 大丈夫? と聞いている割には心配しているようには見えない。心の余裕が無い俺はからかってきた本人――直都を思い切り睨みつけるが、睨まれても彼は心底楽しそうである。
「だっ……大丈夫に……見えんのかよ……っ」
 倒れ込むように席に付き、浅い呼吸を何度も繰り返しながら額の汗を何度も手の甲で拭う。嫌味を言ってみても息が続かないせいで格好も付かない。げほっ、と咳を何度も繰り返す俺を見た直都は、けらけら笑いながら「見えないね」と返してきた。むかつく。
「というか、彼方先輩だけじゃなくて隆一先輩たちにも目を付けられたって聞いたけど」
「はあ? ……隆一先輩に目付けられたのは、どっちかというと、藤咲の方……」
「でも慧も連れていかれそうになったんだろ?」
 横向きに椅子に座り直し、長くも短くもない脚を組んで直都は俺にそう尋ねる。何でそこまで知ってるんだよ。ついさっきの出来事だぞ。無言を貫きながらじとりと直都を見つめれば、直都はハハハと笑って誤魔化した。誤魔化しきれていないけど。
「まあ、過激派に関わってもロクなことにならないから。困ったら彼方先輩に頼りなよ。風紀委員長だし」
「うーん……」
「気に入った相手は所構わず襲う厄介な性癖持ってるけど、それを抜きにしたら優しい人だしね。生徒会とも仲良いし」
 その性癖が厄介すぎるんだよなあ。昨日の行為を思い出すと何だかまた腰が痛くなってきたような気がして、思わず腰を摩る。
 でも、まあ、確かに優しい人ではあった。今日だってほとんどの生徒は連れて行かれそうになっていた俺達を無視していたけど、先輩はわざわざ助けてくれたし。困ったら匿ってやるって言ってくれたし。なんてぼんやり先輩のことを思い出していると、直都は椅子の上で頬杖を付きながら「先輩のこと好きになったとか言うの止めてね」と付け足す。
「はあ? 無いから」
「そう? まあ、どうでもいいんだけど」
「……」
 む、むかつく。余計なことを言う直都にイラッとして軽く肩を叩く。しかし手加減したとはいえ、相当力が弱かったのだろう。「何今の。猫パンチ?」と笑われて、更に殺意が芽生える。そうして何かを言い返そうとしたときだ。
「……?」
 視界に人影が入って、口を閉じる。直都から視線をずらせば、クラスメイトらしき男が俺たちを見下ろしていた。
「ご、ごめんね。お話中に……ええと、水瀬くんだよね?」
 へらっと困ったように笑う黒髪の男。彼の手元を見れば、一枚プリントを持っている。何だろう。質問にうんともすんとも言わず、ただ首を傾げてみせれば、彼は慌てたように「昨日水瀬くん、早退してホームルーム出なかったでしょ?」と告げた。
 確かにホームルームは出ていないが、それよりも彼をどこかで見たことがある気がしてもやもやする。さらさらとした艶やかな黒髪。綺麗な灰色の瞳。どこぞのアイドルグループに所属していると言われたら納得してしまいそうになる顔立ちの良さ。藤咲と比べればだいぶ地味だし、気弱な性格が表に出すぎているので女にモテなさそうだが、顔だけ見ればイケメンの部類に入るだろう。一度見たら忘れなさそうなんだけどな。どこで会ったんだっけ……
「それで、その……机の中に色々プリントが入ってると思うんだけど、一枚こんなアンケートが入ってるはずだから……今日中に書いて、先生に出してくれる?」
 うーん、と俺が色々考え込んでいることを気にも止めず、彼はそう言いながら自身が持っていたプリントを見せる。アンケート。なるほど。言われた通り机の中を漁って探してみれば、確かにアンケートらしきプリントが入っていた。きっと俺以外の生徒はもう昨日既に提出しているのだろう。
「ああ、うん。分かった」
「よろしくね。……それで、ええと、その……」
 うん? 用事は済んだはずなのに一向にその場を離れない彼に、俺は首を傾げる。足元を見ながら何かを言いたげに口をもごもごさせる彼。とっとと席に戻ればいいのに。担任ももうすぐ来ると思うし。そう思っていれば、彼は俺の気持ちを読んだかのように「ご、ごめん」と謝って、「自己紹介、してなかったなと思って……」と続けた。
「えっと、俺、神藤郁海。一応このクラスの委員長で……その、これから色々関わるかもしれないし、よろしくね」
「ああ……俺は水瀬慧。よろしく」
 委員長だから俺に声をかけてきたのか。俺も何となく自己紹介を返して、そこで会話を切ろうと直都に視線を移したときだった。ふと思い出す昨日の出来事。先輩に犯されてる最中に、廊下でばったり会った生徒。無視して逃げやがったあいつも確かあんな感じの黒髪で――そう思い始めれば、あとは簡単だった。絡まった糸がするすると紐解かれていくように疑問が解ける。「あ!」と思わず大きな声を出してしまって、視界の端で直都なんかはびくっと肩を揺らしていたが、そんなことを気にしている場合ではない。
「お前、廊下で逃げた……」
 そうだ。あの時の生徒と、今目の前にいる彼――神藤の顔がぴったり一致して、つい神藤を指差す。指を差された神藤はすぐに何のことを言われているのか悟ったのだろう。さあ、と顔を青くして、「ち、違っ……!」と首を大きく横に振った。
「何が違うんだよ」
「うっ……いや、まあ……違くはないんだけど……っ、その……ご、ごめん……」
 当たりらしい。しょんぼりと眉を八の字に歪めて謝罪を述べられるが、それだけで彼を簡単に許せるほど俺は寛容ではなかった。結構根に持つタイプなのだ、俺は。あそこで助けてくれれば俺は意識を失わずに済んだし、ホームルームにも出られたはずなのに。しかしここでぐちぐち言ってもどうしようもないので、溜め息をついて神藤から目を逸らし、強制的に会話を終わらせる。
「あ、あの……」
 放置された神藤は、どうしたらいいのか分からないのだろう。困ったようにおろおろとしているが、正直知ったこっちゃない。大人しく前の席に座って俺達の様子を伺っていた直都は「拗ねんなよ」とからかうが、全部無視した。するとタイミングよく、がらりと教室の扉が開く。
「すみません、遅くなりました」
 そう謝りながら急いで教室に入ってきた担任の姿を確認した神藤は、「あっ、えっと……ま、またね、水瀬くん」と慌てて自分の席へ戻っていく。それを見て俺はつい、はあ、と息をついた。そんな俺を見た直都は、小声で「嫌ってやるなよ」と笑う。
「別に、嫌ってるわけじゃないけど……」
「そう? まあ、いいんだけどさ……あいつも委員長って柄じゃないのに可哀想だよなあ」
「うーん……確かにしっかりしているようには見えないな」
「だろ? 昨日何故か担任から指名されてさ、仕方なくって感じだったよ。異能の関係なのかな?」
 へえ、担任から指名って凄いな。直都の話を聞きながら話題にあがった担任をちらりと見れば、彼は昨日オリエンテーションをしていた眼鏡の男性だった。この人がこれからこのA組を担当するらしい。



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