07



「うわっ」
 しかし聞こえたのは鈍い音ではなく、逞先輩の驚いた声。同時にぐいっと前に腕を引っ張られる。予想とは全く違った出来事に驚いて、思わず目を開けると――先輩は、宙に浮いていた。
「行くぞ!」
 聞くまでもない。藤咲が異能を使って、先輩の周りだけ重力を無くしたのだ。こんな目立つところでそんな簡単に異能を使っていいのかなんて思うが、そんなことを聞く暇もなく強引に藤咲に教室から引きずり出される。汗ばんだ手。そこから伝わる温もりと、魔力の匂いであろう微かな柑橘系の香り。後方でバタン! と大きな音――推測するに先輩が空中から床に叩きつけられた音だろう――と、「てめえ! 待ちやがれ!」という叫び声が響いていた。
「ど、どこ行くつもり……っ」
「決めてねえけど、捕まるわけには行かないだろ! あんなのじゃ時間稼ぎにもならないと思うし、とっとと身を隠すところを探さないと……」
 藤咲の焦った声を聞きながら、生徒たちで溢れかえっている廊下をひたすら走る。何だ何だと奇異なものを見るような視線を感じるが、そんなことを気にしていられるほど余裕なんて無い。生徒とぶつからないように気をつけるので精一杯だった。
 何だか、今日は走ってばかりだな。元々運動は得意な方ではない。藤咲に腕を引っ張られていなければ、今頃廊下で倒れているだろう。とりあえず藤咲に任せるしかない。そう思って足だけを動かしていれば、藤咲は何かを見つけたのか「あ!」と大きな声を出して、とある部屋の扉を勢いよく開けた。
 急いで部屋に入り、藤咲は慌ててガチャリと鍵をかける。お互いの呼吸音だけが聞こえていた。ようやく手が離されて、掴まれていたところを無意識に摩りながら俺は辺りを見回す。紙の匂い。たくさんの本棚。並べられた机と椅子。――図書室だ。食事時だからだろう。一切人がいない。呼吸を整えながら、俺は安心してその場に座り込む。もう全く足に力が入らない。
「……大丈夫か?」
 俺と同じようにしゃがみこんだ藤咲は、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。流石に藤咲も呼吸が乱れているし汗もかいているが、俺よりは随分余裕そうだ。「大丈夫じゃない」と言ってやりたいが、声を出す元気も顔を上げる元気もなく、俺は項垂れながらただひたすら浅い呼吸を繰り返す。ぽたり、と床に汗が一雫落ちた。
「あー……腹減ったな……」
「うん……」
 ぼそっと呟く藤咲は、長い足を伸ばしてぼーっと天井を見上げていた。確かに腹が減った。結局昼食を買いに行くことすら出来なくなってしまったが、果たして昼休みが終わる前に教室に戻れるだろうか。授業、サボりたくないんだけどな。この学園は高等部も義務教育なのでサボりすぎて留年ってことは無いが、それでも根が真面目な俺は無意味に休みたくない。自慢ではないが今まで授業をサボったことはないのだ。
 なんて考えていると、隣から「あのさ」と声をかけられた。ちらりと視線を移せば、藤咲はいつの間にか俺を見つめていて思わずどきっとする。ただでさえイケメンなのに、走ったおかげで色気が増したその顔で見られるととても困る。俺は自分が思っていたより彼の顔が好きなようだった。そんな気持ちを誤魔化すように俺は素っ気なく「なに」と返す。
「ごめんな、巻き込んじゃって」
「え?」
「水瀬が目付けられたのも俺のせいじゃん。俺と一緒にいなければこんなことにはならなかったし……」
 まさかそんなこと言われると思ってもみなかったから、つい驚いて目を見開いた。心なしか覇気がない。落ち込んでいるのか? 珍しいな……物珍しくて、思わずじろじろと藤咲を見てしまう。
 藤咲の言うとおりだ。藤咲が余計なことをしなければこんなことにはならなかったし、朝とっとと俺の腕を離してくれれば無関係の俺が巻き込まれることも無かった。藤咲に言われなくても今回の出来事は全部藤咲のせいだと思っている。少しだけ恨んでもいる。――でも、それを言葉にする前に謝られてしまうと、なんて返していいか分からない。寧ろこいつも色々考えてたんだなあと感心までしてしまう。何だか馬鹿らしくなってしまって、俺は藤咲を眺めながらふっと笑った。
「別に良いよ……こうなっちゃったもんは仕方ないだろ」
 自分でも穏やかな声が出たと思った。本当は何も良くない。きっとこれから一生根に持つだろう。だが本音は隠したままそう言えば、藤咲は意外と言いたげに目をぱちくりとさせる。
「嘘だ。良いなんて思ってないだろ」
「疑り深いな……思ってないけど、そんなこと言ったって俺達が追いかけられてる事実は変わらないわけだし」
「思ってねえんじゃん……」
 つい本当のことを言ってしまった。俺の言葉に藤咲は苦笑を零す。しかし怒るわけでも呆れるわけでもなく、何故か優しい目で俺のことを見ているから不思議に思っていると、藤咲は伸ばしていた膝を曲げて、そこに頭を乗せたまま俺をじっと見た。
「でも俺、お前のそういうところ好き」
「あ、えっ……?」
 な、何を言ってるんだ、こいつ。動揺して口を開けたまま藤咲を見返す。その言葉に大した意味は無いことは分かっているが、それでも不意打ちでそんなことを言われると恥ずかしくなってしまう。藤咲も照れてくれればいいのに真顔で言うから、どうしたらいいか分からない。くっそ。してやられた。俺は藤咲から視線を移して、「物好きな奴……」としか返せなかった。
 そんな時だ。――ガチャガチャガチャ! 鍵がかかっている扉を無理矢理開けようとする音が何度も響いて、思わずビクッと肩が揺れる。えっ、な、なに!?
「チッ! 鍵かけやがったな!」
 逞先輩だ。彼はドンドンドンと乱暴に扉を叩いてそう叫ぶ。や、やばいやばい。どうしよう。そう藤咲を見るが、藤咲は神妙な面持ちでガタガタと揺れる扉を見つめ続けている。緊張感。息遣いでもバレてしまいそうな迫力があって、俺はつい両手で口元を抑えた。
「……っ」
 心臓が今にも破裂してしまいそうだ。吐きそうになる。冷や汗が止まらなかった。アクションを起こさず、俺達はひたすら黙る。早くどっか行ってくれ。早く、早く。
「……」
 そして、しばらく沈黙が続いた。はあ、と扉の向こうから溜め息が聞こえる。いくら待っても扉は開かないことを悟ったのだろう。足音が聞こえ――それはどんどん遠くなっていった。
「行ったか……?」
「た、多分……」
 小声で藤咲と確認をして、俺達はゆっくり立ち上がった。時計を見れば、昼休みが終わるまでまだ三十分もある。今出て行っても捕まるリスクが高い。このまま黙ってここで過ごすか、もっと安全な場所を探して隠れるか……悩んでいると、ガラッとどこかから扉が開く音が聞こえた。……あれっ?
「――見つけたぞ!」
 そこには、鬼のような形相で俺達を見ている逞先輩がいた。な、何で!? どこから入ってきたんだ!? 焦って逞先輩が現れたところを見れば、俺達が入ってきた扉とは別にもう一つ扉があった。この図書室には二つ扉があったのだ。逞先輩は俺達を捕まえようと、椅子や机を避けながら走ってこっちに向かってくる。
「や、やばいって!」
「わ、分かってるよ!」
 藤咲も焦っているのだろう。手が震えているせいで上手く鍵が開かない。そんな中、先輩はどんどん近付いてくる。まずい、まずい! このままじゃ捕まってしまう! それでも藤咲の覚束ない手元を見ているしか出来なくて歯がゆい。
「逃げんなよ! すぐ捕まえてやるからな!」
 こっちに来る。鍵はまだ開かない。逞先輩はもう勝利を確信しているようで、恐ろしい笑みを浮かべながら俺たちを見据えている。やばい。捕まる。汗が止まらない。そして、無骨な手が伸ばされて――



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