08



「開いた!」
 ――しかしその手は俺の腕を掠めはしたが、掴むことは出来なかった。その前に藤咲が鍵を開けて扉を開けたからだ。「水瀬!」と俺の名前を呼んで、藤咲は急いで俺の腕を掴む。そしてそのまま逞先輩の手を逃れ、俺達は転げ落ちるようにして図書室から出た。足がもつれる。もうやだ。結局全然休めてないまま再び走ることになってしまって、うんざりした。
「クソ! 待てっつってんだろ!」
 逞先輩はそう叫びながらすぐさま体勢を整えて、俺たちの後を追う。怖くて後ろなんて見れなかった。ただ藤咲の背中を見ながら、必死に廊下を走る。生徒たちは走り抜ける俺達に驚いて、ぶつからないように道を開けていた。
「はあっ……ど、どこ行く!?」
「どこって言われても……っ」
「あ、トイレある! トイレとか!?」
「は!? 馬鹿! トイレなんて入ったらすぐバレるし、出られなくなるだろ!」
 トイレは一番ダメだ。扉を閉めればすぐそこに隠れているとバレてしまうし、万が一入ってこられたら逃げ場が無くなってしまう。走りながら藤咲にそう伝えれば――だいぶ荒い口調になってしまったが――、藤咲は返事をせずにトイレを通り過ぎた。後ろからバタバタと足音が追いかけてくる。意外と近いその音にビビりながらも、足を止めるわけにも行かないので俺達は走り続けた。トイレの他に隠れられそうなところは無い。あっても、扉を開けていればその間に捕まってしまいそうだ。もしそこの鍵が閉まっていたら尚更。藤咲も相当困っているようで、俺の腕を掴む力がぎゅっと強くなっている。とにかくどこかに入って休みたい。足はとうに限界を訴えていた。膝が笑っている。もう気合だけで走っているようなものだった。だがもうだめだ。もう無理。死ぬ。
「ふ、藤咲っ……!」
 あとどのくらい走れば助かるんだ。藤咲に聞いたって分かるわけないのに頼りになる人が藤咲しかいなくて、ついそう問いかけてしまう。しかし藤咲は返事をしない。そんな余裕なんて無いのだろう。
 もしかしたらこのまま一生走り続けなければいけないのかもしれない。そんなことありえないのに、ついそう考えてしまうほどには俺は疲れ果てていた。この追いかけっこの終わりが見えないのだ。いつまで逃げていればいいのだろう。逞先輩は昼休みが終わっても関係なく追いかけてきそうだ。授業があるからと諦めて教室に戻るような人だとは思えない。もうどうなってもいいから意識を飛ばしてしまいたい。そんなことを考えながら、藤咲と共に廊下の角を曲がったときだった。
「う、わっ……!」
 藤咲の驚いた声。見れば藤咲の腕が何者かに引っ張られており、そしてそのまま芋づる式に俺までどこかへ連れ込まれる。バタンッと扉が閉まる音と、鍵をかけた音。――そこは、見知らぬ空き教室だった。机は全て後ろに下げられており、普段から全く使われていないであろうことが伺える。だからか少し埃っぽくて、何度も繰り返される呼吸の合間合間に思わずごほっと咳を零した。
「大丈夫?」
 そう俺達に声をかけた人物は扉を背に立ち、心配そうに俺達の顔を覗き込む。彼が俺達を室内に引きずり込んだ犯人らしい。肩まで伸びたパーマがかかった焦げ茶色の髪。ぱっちりとした丸い瞳に、それを縁取る長い睫毛。薄いピンクのカーディガンがよく似合っているそんな彼は、入学式の時に隆一先輩の動きを封じていた男だった。生徒会の人物である。
「っ……えっ、と……貴方は……?」
 そんな彼を不審げに見つめながら、藤咲は恐る恐る彼に問いかける。相当警戒しているようで心なしか声が低かった。いつでも逃げられるようにか、俺の手は掴んだままである。そんな藤咲を見て、彼は慌てたように「そ、そんな警戒しなくてもいいよぉ」と首を振った。優しくて柔らかい声だった。
「俺、椿壱琉。二年生で、生徒会の会計してるんだ。君たちが逞くんに追いかけられてるって聞いて、助けに来たんだよ」
 余計なお世話だったら申し訳ないんだけど。そう言った彼――壱琉先輩は焦げ茶色の髪を耳にかけ、ふわりと笑う。会ったばかりだから何とも言えないが、嘘を吐くような人には思えない。味方、なのだろうか。信用してもいいのかなと思いながら藤咲を見れば、藤咲は疑う様子もなくほっと息をついて、「そうなんですか。ありがとうございます。助かりました」と頭を下げていた。いいのか、そんな単純で。
「俺は一年の藤咲初です。こっちは水瀬慧」
「初くんに慧くんだね。よろしく。……とりあえず移動してもいいかな? 逞くんもどっか行ったみたいだし」
 そう言われれば空き教室の外は静まり返っていて、足音一つ聞こえない。息を潜めて待ち伏せしてるのかもしれないとも思うが、壱琉先輩がやけに自信満々に「大丈夫」と言うので、俺達は何も言わず大人しく彼に付いていくことにした。
 こっそり空き教室を出て、廊下を歩く。随分遠いところまで来たようで全く景色に見覚えがなかった。廊下を歩いている生徒たちも格段に減っているし、ここは一体どこなんだろうか。首を傾げていると、それを察した壱琉先輩は俺を見てにこりと笑いかける。
「皆の教室があるのがA棟なんだけどここはB棟で、主に特別教室がある棟だよ。その中でもここは結構奥の方だね」
「へえ……」
「あと少し歩いたら生徒会室があるんだ。ひとまず昼休みの間はそこに隠れていよう。空き教室よりは確実に安全だから」
 生徒会室。そう言われて、ふと直都を思い出した。それと「俺も、慧と敵対したくないしね」という言葉も。確か、直都は生徒会側だったはずだ。特に会長の熱狂的な崇拝者。あの時は本気で自分が生徒会に関わるわけがないと思っていたけど、まさか三日目で生徒会室にお邪魔することになるとは。丁寧にお断りしたいところだが、だからといって他に行く場所なんてないし、過激派の人たちに連れて行かれたら何をされるか分からない。とりあえず生徒会の人たちに喧嘩を売らなければいいだけだ。覚悟を決めるしかない。そう思っていたら、気付けば目の前には重厚な扉が立ちはだかっていた。うわ、でか。
「失礼しまあす」
 しかし驚いている暇もなく、壱琉先輩は早速ノックをして、返事を待たずにその扉を開ける。
「わっ……」
 高級そうな机や椅子。赤い絨毯。シャンデリア。――扉のその先には、何故か別世界が広がっていた。入学式で見かけた生徒会メンバーがそれぞれ俺達を見つめている。ええと、な、なんだこれ。何だか知らない世界に来てしまったようで怖かった。それを紛らわせるように無意識に藤咲の制服の裾を掴む。そしてそのまま、おどおどと部屋を見渡した。ただの生徒会室なはずなのに、何でこんなに派手なんだ。圧迫感が凄い。
「あれ、壱琉。遅かったね、ご飯食べてきたの? ……って、あれ?」
 そんな中、そう声をかけてくれたのは会長だった。部屋の奥に置かれている半円の大きな机。そこの中央の席に座っている銀髪の彼は、弁当を食べながら首を傾げてみせる。相変わらず動作一つ一つが美しいな。そんなお美しい会長に話しかけられた壱琉先輩はというと、慣れたように生徒会室に足を踏み入れていた。
「逞くんに追いかけられてたところを保護してきたんだよぉ。こっちが初くんで、あっちが慧くん」
「追いかけられてた? ……ああ。君はあの入学式の時の。なるほどね」
「そうそう。だから昼休みの間だけでいいから、この子たちここにいさせてもらってもいいかなあ?」
「うん、そういうことなら構わないよ。逞に追い掛け回されたのもきっと俺達のせいだろうしね。どうぞ、入って」
 そう会長に言われて、藤咲は「お、お邪魔します……」と生徒会室に入る。おいおい、お前こういう時こそ俺を気遣えよ。何でさっさと中に入っちゃうんだよ。そんな藤咲を睨みつけて、俺も慌てて生徒会室に入っていった。藤咲の裾は掴んだまま。



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