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「……」
 さて、この人はいつまでここにいるんだろう。
「……あいつは一緒じゃねえの?」
「あいつ……藤咲ならトイレ行ってますけど」
「へえ」
 沈黙。隆一先輩も俺も自分から喋るタイプでは無いので会話は全く続かなかった。思えば、隆一先輩と一対一で話すのは初めてだ。隆一先輩は出会いが強烈すぎて乱暴なイメージが強いが、意外と冷静で落ち着いている人なのかもしれない。なんて思いながら隆一先輩を見つめていれば、突然先輩がこっちを見るから疚しいことなど無いはずなのに俺は慌てて目を逸らす。はあ。何だこの気まずい空気。用事があるならとっととそこに行けばいいのに。
「お前さ」
 すると隆一先輩は俺を見つめたまま、ぽつりと俺に声をかける。静かな声。気付けば俺たちの周りには生徒がいなくなっていたから、それでもよく先輩の声が聞こえた。ちらりと先輩を見返せば彼は何かを考え込んでいるのか難しい顔をしていて、俺は無言で続きを促す。なんか、嫌な予感がする。
「どんな異能持ってんの?」
 そう問い掛けながら先輩はぐ、と身体ごと距離を縮めてきて、俺は思わず顔を引いた。キスが出来そうなほど近い距離。先輩の影が落ちる。俺の異能。何で突然そんなこと。そう疑問に思うが、すぐに今朝逞先輩に匂いを嗅がれたことを思い出して、逞先輩が隆一先輩に告げ口したのだと確信を持つ。逞先輩、鼻が良さそうだもんなあ。もういっそのこと香水でも付ければいいのだろうか。
 なんて思っていたら先輩の手が俺の頬をするりと撫でて、俺は反射的にその手を払い除けた。パシンと響く乾いた音に、お互い目を見開く。あ、あれ。もしかしてこれ、やばいんじゃ。
「んだよ、下手に出てやったら調子に乗りやがって」
 低い声。隆一先輩の水色の瞳は如実に怒りを表していて、冷や汗が出た。訂正する。先輩が冷静だなんて嘘だ。沸点が低すぎる。一気に不機嫌になった先輩は俺の胸倉を掴もうと手を伸ばす。ああ、もうヤケだ。なるべく大事にしたくなかったが、仕方がない。俺だって殴られっぱなしは嫌だ。俺は先輩の腕を掴み返して、彼をキッと睨みつける。
「俺の異能なんて、先輩に関係無いじゃないですか」
 思ったより自分の声が廊下に響いて驚いたが、そんなことを気にしている場合ではない。気にしない振りをして先輩を睨み続ければ、先輩は「は?」と力が抜けた声を出して伸ばしていた腕を下ろす。そのタイミングで俺も彼の腕から手を離し、後ろに一歩下がって先輩と距離を取った。
「それを聞いてどうするつもりですか? 言っておきますけど、俺は藤咲みたいに先輩たちに喧嘩を売るつもりは無いけど、協力するつもりもないですから」
 余計なことを言っている。その自覚はある。だけど藤咲がいない今、俺が何とかしなきゃいけない。自分の異能を知られたら厄介なことになることは安易に想像出来た。素直に異能を伝えて今後利用されるより、少し痛い目を見るだけで諦めてもらえるならそっちの方が断然良いに決まっている。それに、単純にやられっぱなしは間尺に合わない。そう啖呵を切る俺に驚いたのか、隆一先輩はふ、と静かに笑う。先輩が付けている青い宝石が付いたネックレスがゆらりと揺れた。隆一先輩が笑う姿なんて初めて見たけど、やっぱり悪役みたいだった。
「へえ。お前、あいつに守ってもらってばかりの甘ちゃんかと思ってたけど、ちゃんと自分の意見言えるんだ?」
「……」
「思ったより面白えな、お前」
 面白いって何だ。ギャグを言ったつもりはないんだけど。不満げな表情をしている俺を見て、先輩はくつくつと笑いながら再び俺に近付き、俺の後頭部を触る。そして先輩は「まあ、隠しても無駄だけど」と呟きながらそこをさらりと撫でたと思ったら、もう片方の空いている手で俺の腕を引っ張った。
「な……っ」
 そして振り払う暇もなく思い切り先輩の方へ引き寄せられて、
「――んんっ!」
 キス。口を閉じる前にべろりと熱い舌を入れられて、ぞぞぞと鳥肌が立つ。嘘だろ。何でキス? 先輩の吐息が顔にかかって、今先輩とキスしてるんだと自覚せざるを得ない。得意の現実逃避は出来なかった。
「ん……むっ……ッん、ん」
 その舌は歯茎に沿って左右に動き、そのあと俺の舌をじゅっと吸った。その瞬間びりっと背中に甘い痺れが走って、つい身体を逸らせる。くそ。抵抗しようと先輩の胸を押すが、後頭部を固定されているせいで逃げることも出来ない。
「んぁ、ふ……ッ、んン……っ」
 先輩の舌は触れていないところなんてもう無いんじゃないかというくらいに俺の口内をゆっくり弄る。そして舌で上顎を擦られてしまうと、もう、気持ちよくて何も考えられなった。そしてようやく唇が離れた頃には俺は息が上がっていて、文句の代わりに溜め息が口から漏れる。肩で呼吸をしながら涙目で彼を睨みつければ、先輩はぺろりと自分の唇を舐め、俺の口元を濡らしている唾液を親指で拭うように触れた。
「逞が何か匂うって言ってたからもしかしてと思ってたけど、まさか本当だったとはな」
「っ、はぁ……なにが……っ」
「魔力、溜められるんだろ? お前」
 最悪だ。言い訳が思いつかなくて、俺は何も言わずにただ先輩を見返す。吐息混じりに囁く先輩は手持ち無沙汰なのか、まるで恋人のように俺の髪をさらりと指で梳かした。
「しかもこのこと、永久はまだ知らねえんだろ? 知ってたら絶対今頃生徒会側に引き込んでるだろうからな」
「……さあ。知ってて泳がせてるのかもしれないですけど」
「まあ、そんなのどっちでもいいんだよ。今フリーってことは、俺たちにも望みはあるってことだ」
 望みなんてあるわけないだろ。俺はまた先輩の手を払い除けて、唇を手の甲で力強く拭う。それを見た先輩はその瞳を細めて、何かを考えるように黙り込んだ。なんか、やばい感じがする。不穏な空気を悟って逃げようと俺が足を引いた、その瞬間だった。
「ッ、ぐ……っ!」
 俺が逃げるより先に胸倉を掴み、そのまま俺の鳩尾を狙って蹴り上げたのだ。息が止まる。勢いに任せて倒れこみたかったのに、胸倉を掴まれているせいでそれすらも許されない。胃液が逆流し、それは廊下をぱたぱたと汚していく。そして先輩を見上げようと顔を上げた瞬間、次は頭を横に殴られて一瞬意識が飛んだ。
「言っとくけどな、話し合いで解決しようだなんて端から考えてねえんだよ」
 言うことを聞かせる方法はいくらでもあるんだぜ? そう続ける先輩の目は人殺しのそれだ。なんかもう、俺が喧嘩を売っても売らなくても殴られる運命だったのかもしれないと思うと、今言いたいことを言ってしまった方が得な気がする。そう思って自暴自棄になった俺は、持っていた鞄を先輩の頭を目掛けて振り上げる。
「チッ、危ねえな!」
「何したって俺は先輩方に協力なんてしませんから。先輩に付くくらいなら生徒会に付いた方がまだマシ」
「はあ!? てめえ今何言ってんのか分かってんのか!」
「分かってますよ。冷静に考えて――、ッ!」
 そして再び頭を殴られる。最早痛みは感じなかった。今度は重力に任せて廊下に倒れこみ、そのまま先輩を見上げる。心底苛立っている表情だった。



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