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 ――俺の父親は温厚で優しい人だった。休日は遠いところに遊びに連れていってくれたし、欲しいものは何でも買ってくれた。母親が疲れているときは代わりに家事だってやってくれていたし、気遣いという言葉が一番似合う人だったと思う。きっと端から見たら幸せな家族だったのだろう。俺も小さい頃は父親が大好きで大好きで、いつもべったりくっついていたのをおぼろげに覚えている。
 そしてそれは、俺が小学生になってしばらく経った頃だった。その日は母親が買い物に行っていたため、家にいるのは俺と父親の二人だった。暑い夏の日。日曜日。俺は大好きな父親の膝の上に乗り、アイスを食べながらぼんやりとテレビを見ていた。テレビの内容は流石に覚えていない。鮮明に覚えているのは、俺のTシャツの中にするりと入ってきた父親の生暖かい手の感触だけ。
「あははっ、お父さんやめてよお」
 最初は冗談だと思っていたのだ。普段こんなことをしない父親に疑問を抱きながらも、ただの親子のスキンシップだと思ってきゃっきゃと笑いながら、何気なく父親の顔を見た。――そこにあったのは、欲情を如実に表している二つの目。父親の目ではなく、一人の男の目だった。
「ひっ……え、あ……えっ?」
 想像していた表情とは全く違って、俺は驚きのあまり言葉を失った。そんな俺のことは気にも留めず、父親は無言で俺の胸の突起を摘む。べろりと首筋を這う舌。ただならぬ雰囲気に自分の顔から笑みが消えた。なに、なになになに。どうしたの、寝ぼけてるの。お母さんと勘違いしてるの。色々考えるが、それ以上に恐怖が勝って何も言えない。お父さん、お父さん。やだ、やめて。ねえ。
「慧……かわいい……」
 慧。俺の名前だ。「繊細な心を持って人の気持ちが分かるようになってほしい」という意味を込めた名前だと、少し前に聞いたことがある。そんな俺の名前を、父親の顔をした男は何度も何度も繰り返し俺に囁いているのだ。――勘違いではない。完全に、俺に対して言っている。
「や、やだ、なに? おとうさん、やだ、ねえ……」
 父親は俺の静止の声も聞かず、行為はエスカレートしていく。下着の中に手を突っ込んで俺の性器を握る父親に、俺は無性に泣きたくなった。

 それからも父親のセクハラは続いた。小学生の俺に突っ込むのは流石に気が引けたのか、セックスはせずに性器同士を擦り合わせるだけで終わっていたが、それでも俺は父親と二人きりになることが凄く怖かったし、目も合わせられなくなっていた。慧、慧、と甘ったるい声で囁く父親は、正直気持ち悪かった。
 行為に及ぶのは、決まって母親が出かけている休みの日だ。あれから休みの日になると俺は部屋に引きこもるのだが、扉に鍵なんて立派なものは付いていなかったから、父親がそこへ入ってくるのは容易だった。毎回毎回嫌がる俺を押さえつけて欲望を吐き出し、母親が帰ってくると再び優しい父親に戻る。その頃俺にはこのことを相談出来るような友達なんていなかったし頼りになる大人も周りにいなかったから、俺はずっとそれに耐えていた。耐えるしかなかった。
 ――そして、それがルーティン化してしばらく経ったある日のことだ。その日も母親は外へ出かけていた。いつものように俺の部屋に入り込む父親。そのときは嫌がる俺を無理矢理ベッドへ押し倒し、口に性器を突っ込んでいた。ずんずんと喉奥を付く性器。独特の匂い。もう「どうして」とか「いつまで」とかうだうだ考えるのはとっくに止めた。だって、考えたって答えは返ってこないからだ。俺は天井をぼーっと見つめながら、無心で父親の性器を咥え込む。
「あー……慧、もっと喉締めて」
「んぐ……ッ、う……っ」
「はあ、気持ちいい……可愛い……可愛いよ、慧……」
 可愛い可愛いと何度も繰り返し言うくせに、父親は容赦なく俺の髪を掴んで腰を振っていた。手加減なんてものは最初からしてくれなかった。つつ、と涙が静かに俺の頬を伝う。嗚咽が止まらない。実際に咽頭反射で何度か吐いていて、自分のベッドは嘔吐物まみれだった。そんな俺に興奮しているのか、父親はいつもより達するのが早かったように思える。
「慧……何で俺が、あんなに家族に優しくしてたか分かる……っ?」
「うっ、が……っ、ぅえ゛ッ……」
「はぁ……っ、こういうことをしても、許されるためだよ……」
 吐息混じりに、俺にそう伝える父親。だが意識を遮断していた俺は、なかなかその言葉の意味が頭に入ってこなかった。口の中で更に膨張する性器。それは早く出したいと言うようにぴくぴくと波打っている。『こういうことをしても許されるため』。その言葉を咀嚼する。こういうことって何だ。許される、って誰に。
「なあ、お前は知らないと思うけどさ、実は俺たちがこういうことやってんの、」
 この時、どうして無理にでも意識を飛ばさなかったのだろう。そう強く後悔せざるを得なかった。
「――母さん、知ってんだよ」

 『優しい父親』は、実の息子に手を出していることを許されるために演じていたものだった。母親は俺たちの関係を見ない振りする代わりに、『幸せな家族』でいることを選んだらしい。だって少し家を空けるだけで、父親は家事を手伝ってくれるようになるし、色んなところに連れていってくれる。理想の父親になってくれるのだから。両親は自分たちの利益のために、俺を取引材料にした。そういうことだった。
 俺はそれを知ったとき、いくつもの大切なものを失ったのだと思う。そして、それと同時にいくつもの大事なことを学んだ。人は自分のためなら誰がどうなろうと構わなくなるということ。いくら自分が辛い状況にあっても誰も助けてくれないということ。そして、優しさには必ず見返りが求められるということ。この世界には、きっと見返りのない愛は存在しない。
 だから俺は決めたのだ。俺は死ぬまで他人を信用しないし、他人の力は借りない。助けてもらえないのなら、何を伝えても無駄だ。――そう、思っていたのに。
『俺が、守りたいんです。水瀬のこと』
 藤咲の言葉が脳内でリフレインする。思えば、藤咲は出会った当初から俺を助けてくれていた。俺は藤咲に何も返せていないというのに。
 本当は、初対面なのにやけに干渉してくる藤咲が嫌で嫌で仕方なかった。自己満足に俺を巻き込まないで欲しいと思っていた。正直、今も少し思っている。だって藤咲だって何かきっかけがあれば俺から離れていくに違いないのだ。俺の父親みたいに、突然裏切ってしまうに違いない。じゃないと、無償で俺を助けてくれる理由が分からない。
 だけど、今回は見返りを求めているのだとしても、やりすぎなんじゃないのか。
「はあ……」
 時計を見れば、午後八時。すっかり日は落ちており、空は真っ黒に染まっていた。直都に言われた通り、俺は黙って部屋で藤咲の帰りを待っているが、藤咲は一向に帰ってこない。鞄を置いてきてしまったせいで、手元に携帯も無い。心細い。とりあえずソファーに座って、気を紛らわせるためにテレビを付けてみる。しかし画面から聞こえる笑い声が更に俺の不安と苛立ちを助長させて、耐えられずすぐにテレビの電源を消した。そわそわして仕方がない。ソファーから何度も立ち上がり、用事もないのに冷蔵庫を開けたり閉めたりを繰り返す。入学してから一人で行動することがあまり無かったから、何だか寂しい。
 どうしよう。部屋の片付けでもしようかな。そう思って、自室に入ろうとドアノブに手をかけたときだ。ピンポーン、とチャイムが鳴ったのは。
「えっ、あ……は、はい!」
 ――藤咲だ! 帰ってきたんだ! 沈んでいた気持ちが一気に浮上して、俺はばたばたと大きく足音を立てながら慌ただしく玄関へ向かう。こんな夜更けにこの部屋に用事があるのは藤咲しかいない。良かった。無事だったんだ。俺のせいで藤咲があんな目に遭ってしまったのだ。まずは謝らないと。扉の向こうにいるのは藤咲だと疑いもせず、俺は扉の鍵を開け、ドアノブを捻った。そして「おかえり」と迎え入れようとして、止める。
「よっ、お届け物だぜ」
 そこにいたのは彼方先輩と、知らない男。そして知らない男の背中には、傷だらけの状態で意識を失っている藤咲がいた。



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