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「藤咲くん、一年のトイレ前で意識飛ばしててさ。こいつ――夏希が見つけてここまで運んできたんだよ」
 彼方先輩はそう言って、隣にいる夏希と呼ばれた男を指差す。左側を伸ばしたアシンメトリーな髪型。黒髪に、ワンポイントとして入っている紫色のメッシュ。両手に付けている革手袋と、右手首に付けているパワーストーンが付いたブレスレットが特徴的な彼は、俺と目を合わせると人好きのしそうな笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。
「どうも。風紀副委員長をやってる二年の天宮夏希です。……ええと、見回り中に藤咲くんを見つけてここまで運んできたんだけど、ここ、藤咲くんの部屋であってるよな?」
 夏希先輩は俺にそう尋ねながら、よいしょと藤咲を背負い直す。夏希先輩に背負われた藤咲の顔は髪に隠れてよく見えないが、それでも口元は切れているし、頬も腫れているのが見て分かった。要先輩にやられたのだろう。痛々しい。俺は何だか悲しい気持ちになりながら、夏希先輩の質問に「は、はい」と答える。
「藤咲くん、意識飛ばすくらい魔力吸い取られたみたいなんだよ。まあ、しばらく休んだら目覚ますと思うけど」
 首にかけたヘッドホンを弄りながら、俺にそう教えてくれた彼方先輩。その横で夏希先輩は背負っていた藤咲を下ろし、壁に寄りかからせるように床へと座らせていた。
 確かに、魔力が枯渇すると生命活動に支障が出るため緊急措置として意識を飛ばし、魔力を溜めることに専念するよう身体が作られているというのは聞いたことがある。きっと藤咲もそうなのだろう。全く目を開ける気配が無い。死んでは……ない、よな。一切動かない藤咲に少し不安になりながらも、とりあえず先輩方の話を聞こうと俺は藤咲から二人へと視線を移した。立ったままの二人は何を考えているのか意識の無い藤咲を眺めている。……そういえばここ玄関だけど、中に入れた方がいいんだろうか。藤咲のこと助けてくれたわけだし。一応、先輩だし……。そう思っていると、彼方先輩はそんな俺の思考を読み取ったのか「ん? ああ、大丈夫。俺たちもう行くから」とばっさり断る。
「それより藤咲くんが目覚ましたら、明日放課後に風紀室に来いって言っておいてくんねえ?」
 そしてそう続けた彼方先輩に、俺は「は、はい」と返事をするしか出来なかった。明日の放課後。風紀室。事情聴取のようなことをするのだろうか。一応この二人、風紀委員なんだもんな。……夏希先輩はまだしも、彼方先輩はやっぱりそういう風には見えなくて少し疑ってしまう。
「そしたら先輩、そろそろ行きましょうか」
 すると夏希先輩は間が持たないと思ったのか、彼方先輩をそう促した。それに対して彼方先輩も素直に「ああ」と頷く。藤咲に何があったのか、詳しくは教えてくれないらしい。明日落ち着いてから藤咲と話すのかな。まあ、何があったかなんてきっと俺の方が詳しく知っているんだし、いちいち引き留めることでもないだろう。とりあえず藤咲をベッドに運ばないと。そう思って先輩方を追い返そうと口を開いた時だ。彼方先輩が突然ちょいちょいと手招きをして、俺を呼んだのは。
「……何ですか?」
 どうしたんだろう。不思議に思いながら先輩に呼ばれた通り、先輩の近くへ寄る。何か大事な話? そう思って背の高い先輩を見上げれば、彼方先輩の手がするりと俺の頬を撫でた。そして、
「んむ……っ!」
 キス。ただ、触れるだけの。
「……えっ? な、え?」
 すぐに唇は離れていく。な、なんで? 突然のことに、俺はぱちくりと目を瞬かせる。彼方先輩は相変わらず意地の悪い笑みを浮かべていた。ちなみに、それを見ていた夏希先輩も目を見開いて絶句している。
「顔色悪いから。元気、分けてあげようと思って」
 あー、彼方先輩はこういう人だった。忘れてた。顔色が悪いことに気付いて励まそうとしてくれたのは有難いが、多分本当の理由はそれじゃない。ただ彼方先輩がしたかっただけだろう。思わず俺は片手で顔を覆う。警戒しないで近付いてしまったことや、男同士のキスに違和感を持たなくなってきた自分に嫌気が差した。はあ、と溜め息を零して、とりあえず「ありがとうございます」と嫌味を返そうと口を開く。――すると、
「うおっ」
 彼方先輩の頭部目掛けて拳が飛んできた。彼方先輩は反射的に身体を逸らせて、それを避ける。力が入っていなくてひょろひょろのパンチ。きっと当たっても大したダメージにならないそれは、いつの間にか目を覚ました藤咲から飛んできたものだった。
「ほんと……お前、ふざけんなよ……」
 前髪から覗く、殺意が篭った瞳。立つのもやっとなのだろう。ふらつきながら壁に手を付いて彼方先輩を睨む藤咲の顔は青白い。それを見た彼方先輩は、楽しそうにふわりと笑った。
「おはよ、藤咲くん。顔がだいぶ男前になってるけど、大丈夫か?」
「っ……次水瀬に、手出したら殺す、って……言っただろ……」
「まだ寝てた方がいいって。普通この状態で起きる方がおかしいんだから」
「……うっせえ……誰の、せいで……ッ」
 藤咲は最後までその言葉を紡ぐことなく、一瞬意識を飛ばす。俺は「ふ、藤咲っ」と名前を呼びながら、床に倒れそうになる藤咲を慌てて支えた。身体が冷たい。きっと体温を下げることで、余計に魔力を排出しないようにしているのだ。黙っていれば魔力は回復するが、それでも一気に魔力が無くなれば死ぬこともある。俺が去ったあの時、確かに藤咲は死にかけていたのだ。そう思うとぞくっと背筋に冷たいものが走り、何とも言えない気持ちになる。俺の支えでやっと立っている藤咲は、もう声を出す力も無いのか、黙って彼方先輩を睨んでいた。
「彼方先輩、これ以上は藤咲くんの身体に負担がかかりますから」
「分かってるよ。まさかここで起きるとは思ってなかったからさ」
 夏希先輩は気まずそうに彼方先輩にそう伝えると、彼方先輩は仕方ないなと言いたげに肩を上げ、藤咲の顎を片手で摘む。「先輩」と止める夏希先輩の声は無視だ。
「何であんなことになってたかは改めて明日聞くけど、どうせまた慧ちゃん関連なんだろ」
「……」
「このままこの調子で自己犠牲続けてたら、お前いつか本当に死ぬぞ」
 真面目な表情。赤い瞳が絡み合う。彼方先輩はそれだけを吐き捨てて、藤咲から手を離した。藤咲は何も言わない。俺も藤咲の身体を支えながら、何も言わずに彼方先輩を見ていた。
「ま、お前がそれでいいなら別にいいんだけどさ?」
 そう続けた彼方先輩は、真剣な雰囲気を壊すようにわざと軽薄な口調で締めて「行くぞ」と夏希先輩に声をかける。そしてそのまま夏希先輩の返事を待たずに、踵を返して廊下に出ていってしまった。夏希先輩は彼方先輩の背中に向けて「ちょっと待ってくださいよ!」と言いながら、申し訳なさそうに眉を下げて俺たちに視線を合わせる。
「ごめんな? うちの委員長が……あの人誰にでもあんな感じだからさ、見てるこっちが冷や冷やするんだよ」
「は、はあ……」
「って、そんなことはどうでもいいよな。はは。……それで、ええと、とにかく今日はゆっくり休んでくれ。明日話を聞かせてくれたらそれでいいから」
 水瀬くんも、藤咲くんも。そう付け加えて、夏希先輩は「それじゃあ」と軽く頭を下げ、廊下で待っている彼方先輩の元へ駆け寄っていく。ぱたん、と閉まっていく扉。それをぼーっと見つめながら、俺はようやく肩の力を抜いた。



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