手の震えを必死に抑えながら、ゆっくりと彼のスラックスと下着を下ろす。現れる白い肌が艶かしい。午後十二時。遮光カーテンを締め切って電気も付けないまま、俺は自分のベッドに横たわる水瀬を見下ろした。
「……水瀬」
 声をかけても目は開かない。繰り返される荒い呼吸。水瀬の苦しそうな表情を見るのが辛くて、俺は逃げるようにそっと視線を後孔に移した。
『後処理はお前に頼むわ。じゃあな、慧ちゃん。また会おうぜ』
 あれから俺は、意識を失った水瀬を背負って自分たちの部屋まで運んだ。やることやって去っていた皇彼方を追いかけたい気持ちもあったが、水瀬を放っておくことも出来なかったのだ。――後処理。それがどんな意味を示しているのか分からないほど、俺は純情では無い。流石に男同士というのは未知の世界だったけれど、やらなければいけないことは大体想像が付く。他人に任せるくらいなら、俺がやった方がいい。そう思ってここまで来てしまったが、それでも意識を失っている水瀬にそういうことをするのはやはり少し気が引けた。だけど、躊躇っている場合ではない。入学式が再開する前に終わらせてしまって、水瀬が早退することを担任に伝えなければいけないのだから。
 ……よし。俺は深く息を吸って、吐く。そして覚悟を決めて、俺は自分の中指をゆっくりとそこへ埋め込んだ。
「ん……っ」
 眉間に皺を寄せた水瀬が小さく呻く。熱くて狭いそこは俺の指を食いちぎるようにきゅう、と締め付けた。どろり、とベッドを汚す不透明な白。それが皇彼方のものだと思うと、無性に吐き気がした。
「あ、う……っ」
「ごめん、ちょっと我慢して……」
 聞こえていないのは分かっているが、それでもつい謝ってしまう。起きる気配はない。それが更に俺の罪悪感を生んで、押しつぶされそうだった。昨日会ったばかりの同室者に、何しているんだろう。俺。仕方がないとは言え、意識のない男の後孔に指を突っ込んでいるのだ。きっと水瀬に知られたら怒られる。ただでさえ警戒されているのに、もう顔も合わせてくれなくなるかもしれない。そう思いながら、俺はくるりと指を回し、引き抜く。そして溢れ出る白濁液をぼんやりと眺めながら、再び指を入れた。意識のない彼へこのような行為をしていることへの申し訳なさ。そこにあるのは、それだけだ。そう思っていたかった。
「ほんと、ごめん……」
 だけどそれ以上に罪悪感を煽るのは、水瀬のこの姿に素直に情欲が掻き立てられている自分の下半身だった。

「おーい、寝んなよ。ここで終わりなんてつまんないだろ」
 ぱちんと思い切り頬を叩かれ、意識を戻す。俺に跨ってそう吐き捨てたのは、ミルクティー色のパーマがかかった髪に、焦げ茶色の瞳を持った男――御子神要だった。彼のネックレスが首元でちらりと揺れる。頭が痛い。呼吸が上手く出来ない。え……っと、なんで、こんなことになってるんだっけ。意識を取り戻した直後だからか夢と現実の区別が付かなくなっていて、俺はとりあえず状況を整理することにした。
 ええと、確か放課後、部屋に戻る前にトイレに行ったらそこで御子神要にばったり出会したのだ。それで、御子神要を躱しながらトイレから出たら水瀬と神代隆一がいて、そして――ああ、そうだ。神代隆一が水瀬に手を出したって聞いたから殴ってやろうかと思ったら、こいつに邪魔されて、気付いたら二人がいなくなってしまったんだった。状況を思い出すと同時に、余計にキスの感触まで思い出してしまって、思わず俺はその感触をかき消すように口を拭う。
「で? 慧くんたち行っちゃったけど、どうする?」
「……」
「もうここには初くんが守りたかったものは無いけど」
 御子神要は髪を耳にかけながら、そう笑みを作る。何が言いたいのか分からなくて無言で彼を睨みつければ、彼は呆れたように笑い、「わっかんないんだよなあ」と俺から目を逸らし、先程まで水瀬たちがいた場所を眺めた。トイレ前廊下。ここにはもう、俺たち以外誰もいない。
「まだ慧くんと出会って三日でしょ? 何でそんなに執着してんの? そこまで固執するほどのものをあの子が持っているとは思えないんだけど」
 そう言いながら、彼は心底不思議そうに首を傾げる。そう言われても俺だって分からない。ただ、俺が守ってあげなきゃと、そう思っていただけだ。
『えっと、俺は水瀬慧。よろしく』
 入寮日。自分の部屋に向かっている途中で、おろおろと何度も廊下を行き来する水瀬を見つけたところから、多分全てが始まったのだと思う。黒髪黒目で一見大人しそうな彼を見て、何となく放っておけなかったのだ。だって、初日から迷子になってるんだぞ。番号順に行けば自分の部屋にたどり着かないことなんて無いはずなのに、それでも迷っている水瀬を見て心配にならないわけがない。
 それでも、関わっていく中で水瀬は思ったよりも自分をしっかり持っていることを知ったし、守られることを嫌うタイプなのも知った。今思えば、きっと今まで俺のことをお節介だなあと思っていたのだろう。余計なお世話だと思っていたに違いない。彼は自ら自分のことを話すようなタイプでは無かったけど、何となく察してはいた。
 でも、気付いた時には既に俺はもう、水瀬のことを一人にすることが出来なくなっていたのだ。皇彼方に襲われている水瀬を見たときから、ずっと。――怖かった。俺がいない間に水瀬がまた襲われたりなんかしたらと思うと。きっとこれからも水瀬は色んなことに巻き込まれていく。でも守られたくないとは言うが、自分のために異能を使えない水瀬は自分の身一つ守れないのだ。じゃあ、同室者の俺が水瀬を守るしかない。俺が一緒にいるしかない。誰かを守ることでしか存在意義を見い出せない俺が、この学園で生きる理由を見つけた瞬間だった。
「……何も、持ってなくてもいいんだ。寧ろ、このまま持たないでほしい。そしたら、俺が分けてあげられる」
 相手はあの御子神要なのにも関わらず、俺はそうぼそりと呟いた。こいつにこんなことを言っても仕方ないのは分かっているけれど、自分の考えを整理するためにも言わずにはいられなかった。御子神要はそんな俺を見て、興味深そうに「ふうん」と返す。
「まあ、でも……あの子が何も持ってないって思ってるのは、俺たちだけかもしれないね?」
「え?」
 何も持ってないと思っているのは、俺たちだけ? ど、どういうことだ。まさかそんな話になるとは思ってもみなかったから、俺は思わず御子神要の顔を見上げた。ぱちくり、目を瞬かせる。すると、そんな俺を見下ろしている御子神要は、突然俺の胸倉を掴んで俺の身体を引き上げた。ふわり、優しく微笑みかけられる。そして俺の背中が床から離されたと思いきや、彼に持ち上げられている状態のまま――再び唇を塞がれた。
「んんっ! なん、ッ、ん……っ!」
 再びぬるりと入ってくる熱い舌。その舌は俺の舌を絡み取り、じゅっと吸う。ミルクティー色の髪が俺の頬を擽った。彼の魔力の匂いなのだろうジャスミンの香り。キスをされればされるほど増していく頭痛。ガンガンと鈍器で何度も殴られているかのようなその強い痛みに耐え切れず、俺は抵抗すら出来なかった。
「っ、はぁ……」
 そして御子神要は俺の口内を蹂躙して、ようやく唇を離す。自分の中にある何かが消えてしまったような感覚に、俺はただ、お互いの唇に銀色の橋が架かる様を眺めていた。こいつ、何でまたキスなんか。真意が見えない彼を不気味に思っていると、彼は妖艶にぺろりと下唇を舐め、胸倉を掴む手とは反対の手で俺の頬を撫でた。
「ちょっと調べさせてもらったんだけどさ、慧くんの異能は、確か『膨大な魔力を生成・貯蓄出来る能力』だったよね?」
「え……?」
「でもさ、よく考えてみてよ。体液の交換で魔力を受け渡すことが出来るのは、何も慧くんだけじゃない。だって異端者は全員、体液に魔力が含まれているんだから」
「……」
「ここまでヒントをあげたんだ。もう察したよね? きっと今、君は魔力が枯渇している。身体も悲鳴をあげているはずだ。――つまり、それは何を意味しているんだと思う?」
 この頭痛が示している意味。何故キスをされただけで副作用である頭痛が現れるのか。そんなことを聞かれても、痛みに邪魔されて何も考えられない。
「体液交換をすれば俺でも初くんの魔力を奪えるし、逆に引き渡すことも可能だってことだよ」
 御子神要はそう言って、俺の胸倉を掴んだまま耳元で囁く。
「膨大な魔力を持っているのは体質であって、異能ではない。――慧くんは多分、本人も気付いていない異能を持ってる」



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