03



 あれから無事にトイレに行けた俺は藤咲と夕食を取って、そのまま部屋に戻ってぐっすり寝た。慣れない環境に流石の俺も疲れていたようだ。
 そして翌日。俺は1年A組の教室にいた。
「席、ちょっと遠くなっちゃったな」
 黒板に貼られた用紙を見ながら藤咲はぽつりと呟く。一緒になってそれを見れば、藤咲の席は一番前で、俺は一番後ろだった。同じ列だから顔も見ることが出来ない。まあ、「藤咲」と「水瀬」だったらこんなものだろう。藤咲の言葉に頷くだけにして、俺は鞄を肩にかけ直して自分の席に向かう。「あ、昼一緒に食おうな」と背後から掛けられ、顔を見ないまま軽く手を上げた。なるべく声は出したくなかった。朝には滅法弱い。とりあえず座ったら少し寝ようかな。そう思って、自分の席に鞄を置いたときだ。
「あ、君ここの席の子?」
 前の席に座った男が人懐っこい笑顔を見せながら振り返る。話しかけられるとは思っておらず、とりあえず席に付きながら頷くと、彼は何とも嬉しそうに破顔した。
「良かったー、怖い人だったらどうしようかと思った」
 ふわふわ跳ねさせてる茶髪に、深い森のような瞳。人見知りせずににこにこと話しかけてくる姿は、何となく柴犬を彷彿させる。何と言っていいのか分からず黙って苦笑を返せば、彼はジャケットのポケットからスマホを取り出した。
「俺、真嶋直都。お前は?」
「あ、俺は水瀬慧。よろしく」
「ん、よろしく。連絡先交換しよ!」
 スマホを見せられてにこやかにそう言われれば、流石に断れない。最初から断るつもりもなかったが。俺は「うん」とだけ返して、自分のスマホを取り出した。やり方を教えてもらいながら何とか連絡先を交換して、画面に表示されている「真嶋直都」の名前を確認する。そういえば藤咲と連絡先交換してないな。あとで聞こう。そう思ってスマホを机の中に突っ込めば、突然彼は内緒話をするように前のめりになって「慧ってさ」と囁いた。
「生徒会長に喧嘩売ったって本当?」
 ……ん? 身に覚えのないことを言われ、思わず「は?」と間抜けな返事をしてしまう。生徒会長がそもそも誰のことなのか分からないし、この短期間で誰かに喧嘩を売った覚えはない。首を傾げれば、彼――直都は「もしかしてデマ?」と俺の動作を真似るように首を傾げた。
「昨日食堂でモメてるところを見たって友達が言っててさ」
「食堂? ――ああ」
 昨日食堂であったことと言えばあれしかない。別に喧嘩を売ったわけでもモメたわけでもないが、噂というのは勝手に尾鰭が付いて一人歩きするものだ。あんな目立つところでやらかしてしまったという事実に改めてげんなりしたが、まあ、やってしまったものは仕方ないだろう。溜め息をついて、渋々「別にモメたわけじゃない」と訂正した。
「そうなの? 俺その時食堂行ってなかったからさ。知らなくて」
「うん。ちょっと前見てなくて、ぶつかっただけ。……それより、本当にあの人が生徒会長なのか?」
「銀髪で病弱そうな人だった?」
「ああ」
「じゃあ生徒会長だ。月之宮永久先輩」
 月之宮永久。それがあの銀髪の男の名前らしい。大変な人にぶつかってしまったようだとまたもや溜め息を付かずにはいられなかった。しかし、月之宮か。どっかで聞いたことあるな。そう首を捻れば、この学園の名前を思い出した。私立月之宮学園。月之宮永久。……ただの偶然であってほしいが、月之宮といった名字も滅多に無いだろう。ひやりと背中から汗が垂れる。……も、もしかして。
「ここの理事長の孫だよ」
 そう告げる直都に俺は文字通り頭を抱えた。最悪だ。なんて人にぶつかってしまったんだ。病弱そうな彼にぶつかってしまったこと自体にも罪悪感を感じるのに、まさかその人が生徒会長で、理事長の孫なんて。仕方ないとか言ってる場合じゃないとうだうだ考えていると、ふととある疑問が浮かんだ。顔を上げて直都の目を見つめる。――そもそも何故俺と同じ一年である直都が生徒会長を把握しているんだ? だって入学式前だ。これほど学園のことを把握してるのはおかしくないか? 不思議に思っているのが顔に出ていたんだろう。俺に見つめられてしばらく黙っていた直都だったが、俺の言いたいことが分かったのか「ああ」と納得したように苦笑する。
「俺、中等部からエスカレーター式でここに来たから、ある程度高等部の事情も知ってるんだよね」
「……中等部? ここ、高等部だけじゃないのか?」
「うん。強制で入れられる高等部の方が圧倒的に人数も多いし有名だけど、能力が覚醒して勘当された子のために中等部もあるんだよね。会長もそう。中等部のときお世話になってさ」
 確かに、ほとんどの親は自分の子供が異能を持っていたと知ると途端に気味悪がる。そして平気で家から追い出し、縁を切るのだ。世間は異能を全く信じていない。人間は自分たちが理解出来ないものは切り捨てる傾向がある。
 しかし異能の覚醒は早くて小学校高学年。そんな小さい時期に捨てられたら死んでしまう。それに異能が発現したばかりの時期は精神状態も異能自体も不安定なのだ。一般人の振りをして中学校に通うのも難しい。そんな子供たちのために中等部が設立されたのだろう。実際俺もこの学園に入る経緯はそんな感じだった。たまたま能力の発現が遅れたから中学生のときは普通の学校に通えていたが、もし発現が早ければ中等部からここにお世話になっていたのかもしれない。そんなことを考えていると、目の前の男ははあ、と深く息をついた。
「でも、そっか。会長に喧嘩売ったわけじゃないんだ」
 直都はほっとしたようにへらりと笑う。そして俺に手を伸ばし、そっと頬に触れた。

「本当に喧嘩売ってたら、殺しちゃうところだった」

 えっ、と思わず声が出た。冷たい手にも驚いたが、彼の冷たい瞳にも驚いて俺は思わず息を呑む。辛うじて笑みを浮かべてはいるが、どうも目は笑っていない。これは冗談だろうか。最近はこういうブラックジョークが流行ってるのか? しかし冗談にしては質が悪すぎる気がする。だって俺たちはただの男子高校生ではないのだ。簡単に人を殺せる異能を持っている。
「……」
 何も言えなかった。正確には、何と言ったらいいのか分からなかった。心臓がうるさい。居心地が悪くて思わず腰を引く。そんな俺を見て何を思ったのか、直都は一瞬で殺気を隠して再び人の良さそうな笑みを浮かべた。
「ねえ、慧の異能って何なの?」
 話を変えるつもりらしい。誤魔化されたなと思いつつ、それを指摘する勇気も元気も無いので、とりあえずいつの間にか止めていた息を吐いて自分を落ち着かせた。
「別に何でもいいだろ」
 溜め息混じりにそう言えば、直都は「えー」と不満げに声を漏らす。
「俺たち友達じゃん。減るもんじゃないんだし」
「じゃあお前が教えろよ」
「やだよ。弱点付かれたら困るもん」
 けらけら悪気なく笑う直都にイラッとしつつ、文句を飲み込む。何なんだよ、俺には聞いておいて。そう思わずにはいられないが、まあ、当然だ。異能なんて簡単にバラすものじゃない。何をされるか分からないからだ。特に俺の異能は利用されやすい。誰にも言うつもりはなかった。そもそもあんな簡単に自分の手の内を明かす藤咲が異例なのだ。昨日の藤咲の様子を思い出して、つい眉間に皺が寄る。



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