07



「はぁ……っ」
 気持ち悪い。気持ち悪い。自分が思っていたよりもだいぶ我慢の限界が来ていたようで、動けば動くほど体調がどんどん悪くなっていく。歩くたびに身体に伝わる振動が、更に吐き気を誘発させた。滲み出る脂汗。荒くなる息。あー、クソ。トイレまであと少しだというのに。気持ち悪い。吐きたい。でもこれ以上歩けそうに無い。俺はゆっくり廊下にしゃがみ込み、吐き気が治まるのを待つ。
 トイレはラウンジからずっと右に進んだところの少し分かりにくいところにあり、俺がいる廊下はラウンジに比べてほとんど人気がなかった。人がいないことをいいことに俺は腹を抱えながら蹲る。額を床に付けて、所謂土下座の格好である。はあ、と熱い息をゆっくり吐き出した。心臓の音がやけにうるさい。忙しさにかまけて処理を後回しにしていたツケが今になって回ってきたらしい。しんどい。
「あ? 何やってんだ、お前」
 そんな時だ。背後からそう声を掛けられて、俺は顔だけを動かして相手を視界に入れた。
「気持ち悪ィの?」
 その男はヘッドフォンを外しながら、奇異なものを見るように目を細めてこちらを見下ろす。毛先を赤く染めている黒髪がやけに似合っているそいつは、緑色のネクタイを付けていることから三年生らしい。両耳に直棒ピアスを付けていたり、ヘッドフォンを付けていたり、制服を着崩していたりと、どこからどう見ても不良である。嫌な人に見つかってしまったなと思いながら、「大丈夫です」と答えようとしたが、思った以上に声が出ず、呻き声にしかならなかった。
「へえ」
 嫌な予感しかしない。ニタァ、と面白いものを見つけたという風に憎たらしく笑う彼は俺の目の前でしゃがみ込み、ぐ、と俺の顎を掴んで顔を上げさせる。は、吐きそう。
「や、……っ」
「吐く?」
 吐く、吐くから。そう言いたいのに上手く声が出せない。ダメだ。出る。胃から何かがせり上がってくる感覚に焦って相手の腕を掴むが、力が入らなくて何の抵抗にもならない。誰かこいつをどうにかしてくれ。
「後で掃除させるから気にせず吐いていいぜ」
 ニヤニヤしながらそう言って、彼はもう片方の手で俺の耳を優しく撫でる。気にせず吐けるわけがない。誰に掃除させるつもりなんだ。馬鹿じゃないのか。そんな文句も言えないまま、そいつは俺の胃を目掛けて――蹴りを入れた。
「ぐ、ッ……! お、えっ……!」
 てめえ、この野郎! そんな言葉も次から次へと出てくる汚物に妨げられ、ただひたすらべちゃべちゃと吐き出される汚い音だけが廊下に響いた。ツンとした臭いにまた吐きそうになる。蹴られた腹がじくじくと痛い。手加減してくれたのだろうが、それでも今まで暴力を受けてこなかった俺には相当キツかった。何でこんな目に。
「あー、いいな、その顔。最高」
「はぁ……っ、は、」
「それにしてもこの匂い……お前だいぶ魔力溜め込んでたな?」
 撒き散らかされた汚物の匂いを嗅いだそいつは心底面白そうに笑って、「お前、本当最高」と俺の汗まみれな額にキスを落とす。魔力はそれぞれ特有の匂いを持つ。汚物に混ざる魔力の匂いをこいつは嗅ぎとったのだろう。俺が体調を崩していた原因にいち早く気付いたそいつに、俺は何とも言えない気持ちになる。
「赤いネクタイってことは新入生か。名前は?」
「……」
「何だよ、教えてくんねえの?」
 我が儘だな、とケラケラ笑うそいつは俺の顎から手を離し、俺のジャケットのポケットに手を突っ込んで電子生徒手帳を取り出した。そして生徒手帳を起動させたかと思うと満足気に笑い、それを元の場所に戻す。――名前を見られたと気付いた時にはもう遅かった。
「俺は三年A組、皇彼方だ。よーく覚えておけよ。一年A組、水瀬慧ちゃん」
 ああ、もう。最悪だ。最低な奴に目を付けられた。返事なんて出来るはずもなく、俺はただひたすら彼を睨む。今すぐにでもそいつの名前を綺麗さっぱり忘れてやりたいが、ここまで強烈なことをされると忘れたくても忘れられないだろう。奴の赤い瞳が、舐めるように俺を見る。泣きそうになった。もう解放してほしかった。それでもそいつは俺の前から去ろうとしない。喉の奥が胃酸で酸っぱい。制服や手も自分が出した嘔吐物で汚れてしまって、今すぐにでも手を洗いたかった。――彼が動こうとしないのなら、俺がどこかへ行けばいい話だ。そうしてここから去ろうと立ち上がろうとした、その時だった。
「う、わっ……!」
 突然胸ぐらを掴まれたと思いきや、乱暴に仰向けに押し倒された。背中を床に思い切り叩きつけられ、思わず息が止まる。びちょ、と自分が吐き出したものが髪についた。
「な、なっ……」
「逃げようとすんなよ、慧ちゃん。ここからが本番だろ」
 ぺろりと舌舐りをしながら馬乗りになって俺の首筋に顔を埋めるそいつは、片手で器用に俺のベルトを外しにかかる。ゲロ塗れの床でよくそんなこと出来るな、なんて感心してる場合ではない。カチャカチャと廊下に響く金属音に血の気が引いた。
「ちょ、や、やめろって!」
「慧ちゃんの魔力の匂い、超興奮する。俺たち相性良いんじゃねえ?」
 くん、と匂いを嗅いでそう言うそいつに一つパンチをお見舞いしてやろうと腕を振り上げるが、いとも簡単にその腕を掴まれ、気付けば俺の両手はそいつの片手で封じられてしまう。そして空いた手で俺のネクタイを外し、それで俺の両手を縛り上げた。いやいや、ホント、洒落にならない。マジで。
「ほ、本当、頼むから、マジで止めて……」
「じゃあ『彼方先輩、止めてください』って可愛くお願いしてみ?」
 そしたら止めてやらなくもない、と彼は楽しそうに笑う。はっきりしないその言葉は正直全く信用出来なかった。それでも止めてもらえる可能性が少しでもあるのなら、それに賭けるしかない。プライドを捨てるか、俺の貞操を捨てるか。どっちを選ぶかなんて決まりきっていた。元々俺にプライドなんて存在しないのだ。
「か、かなた、せんぱい……っ、や、やめて、ください……!」
 必死だった。そんな思いが表情に出ていたんだろう。先輩は驚いたように目を見開いたあと、にんまりと笑って、
「はは、かーわい」
 やっぱり止めてはくれなかった。
「魔力にも相性があるって知ってるか? 相手の匂いに無条件で惹かれるらしいんだけど、これって性別関係ねえんだな。初めて知った」
「あ、う……やだ、や……っ」
「やだ? 可愛いな。そう言われるともっとしてやりたくなるだろ」
 耳元で囁かれながら、スラックスと下着を一緒に下ろされる。突然の開放感にぶるりと腰が震えた。ここ、廊下なのに。生徒だっていないわけじゃないのに。足をばたつかせて抵抗するが、先輩には全く効いていない。寧ろ抵抗すればするほど楽しそうに笑っている。やだ、本当、知らない男にケツ狙われるとか、有り得ない。無理。死にたい。
「めっちゃ萎えてる」
「うう……やめて、くださ、い……っ」
「止めねえよ、勿体ねえじゃん」
 先輩は自分の唾液を手に絡めて、そのまま俺の性器へと手を伸ばし、優しく扱く。彼の唾液のおかげで滑りが良くなったそれから、くちゅくちゅといやらしい水音が聞こえ、耳を塞ぎたくなった。だが、それ以上にその唾液から強く香る先輩の匂いにくらくらする。甘ったるい匂い。こんなことをされているのに先輩の魔力の匂いに少し安心してしまって、絶望した。これが魔力の相性ってやつか。もうやだ。



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