5

揺蕩う残像



「人の心を読む、って実際どうなんですか?」
 とある秋の日の放課後。夕暮れが窓から差し込んで、三年の教室がオレンジ色に彩られていた頃、慧はぼそりと彼方に問いかける。
 なんてことはない。ただの世間話のつもりだった。他人の心の声を聞くというのは、誰しもが一度は憧れる魔法のようなものである。彼方はそのことについてどう捉えているのか、聞いてみたかっただけだった。正直に言えば、ただの興味本位。
「常に幻聴聞いてる気分」
 そんなふんわりとした質問に、彼方は腕を組んだまま窓に背中を預けながら、悩むことなく簡潔にそう答える。窓側の席に座って目の前にいる彼方の姿をぼーっと眺めていた慧は、「幻聴?」と首を傾げてみせた。思っていた返答とは違ったから。
「クスリやったらこんな感じなのかなあ、って思う」
「そんなにですか?」
「ああ。今は比較的コントロール出来てるけど、気抜くと一気に声が入ってくるんだよ。俺の意志とは無関係に」
 あんまり良いもんじゃない。そう言いながら彼方は慧をちらりと見下ろす。
「聞いてて不愉快になるものばかりだからな」
 軽い言葉では無いはずなのに、重たさを感じさせない言葉。彼は敢えてそのような雰囲気を作り出しているのだろうと慧は思う。  
 今、彼は何を考えて言葉を発しているのだろうか。彼方は今慧を見つめてはいるが、その先には他の誰かがいるような気がして、慧は耐えきれずに「先輩」と彼を呼んだ。
「ん?」
「あ……えっと、大丈夫ですか?」
「何がだよ」
 そりゃそうだ。呼んだはいいもののその後のことは考えていなくて、とりあえず思ったことを伝えてみれば、彼方はふっと吹き出して呆れたように微笑む。そして慧から視線を移し、何も無い天井をぼんやりと見上げた。
「まあ、今まで色んな事あったけど……全部受け入れるしかねえんだよなあ」
「……」
「その中でいかに楽しく過ごすか。そればかり考えてるな、最近は。たった一度の人生だし」
 さて、この話は終わりだ。そう言うように、彼方は窓から背中を離して机に置いていた自身の鞄を手に取る。「帰るか」と促された慧は彼方の態度に納得行かないまま、渋々席を立った。そうすることしか出来なかった。

 彼方がどんな気持ちでどんな人生を送ってきたのかなんて、赤の他人である自分が分かるはずがないのだ。それは誰にでも言えることだし、慧のことだって彼方には分かるはずがない。例え気持ちが読み取れるとしても。
 それでも何だか無性に悲しかった。彼を本当の意味で理解することが出来ないことが。どうせ分からないだろうと最初から諦められていることが。

 だって先輩、この心の声だって聞こえてるんでしょう。

 彼方が先程まで立っていた場所をふと見れば、そこには小さい頃の彼が慧を見つめていた。彼が何を考えているのかは分からない。笑いも泣きもせずただ真顔でこちらを見ている姿は不気味でもあった。
 しかし慧は彼に何をするでもなく、彼から目を逸らして、教室から出る彼方の背中を追う。

 きっと今の自分では、彼に声をかけることさえも出来ないから。



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