罪悪感という侵食

「おはよ、弥智」
 あんなに放課後なんて来てほしくないと願ったのに、無情にも時は過ぎていく。気付けば俺はスクールバッグを持って、部室であるプラネタリウムの重い扉を開けていた。
「お、おはようございます、深夜先輩」
 おはようという時間帯でも無いが、他にどう挨拶したらいいか分からず、とりあえず先輩に合わせて返す。先輩は先に部室に来ていたらしく、ふかふかの椅子に座って英語の教科書を読んでいた。窓が無く、一切窓の光が差し込んでこないそこはオレンジ色の人工的な明かりで照らされている。期末テストが近いとは言え、こんな暗いところじゃなくて自分の部屋や図書室で勉強すればいいのになあ。そう思いながらどこに座ろうかと辺りを見渡して迷った結果、結局俺は先輩から遠く離れた席に座った。あの夢を見た後はいつも気まずくなる。しかし、そんな不自然な俺に気付かないほど先輩は鈍感ではない。
「遠くない?」
「えっ……そ、そうですか……?」
 先輩からの指摘に、ひくっ、と頬が引きつる。それでも「先輩に告白されるんじゃないかと警戒しているんです」なんて言えるわけが無いので、適当に惚けながら俺は鞄から星座図鑑を取り出した。今の時期特に部室に来てもやることが無いので毎日これを眺めるのが日課だった。そんな俺を見て、俺に会話を続ける意思が無いことを察したのだろう。何かを考えるように黙った先輩は暫くして「まあ、いいけど」と返し、それから沈黙が続く。空気が重い。
「……」
 罪悪感。誰かを避けるなんてしたこと無かったから、胸の中がもやもやして仕方がない。何だか堪らなくなって、星座図鑑を見る振りをしてちらりと横目で先輩の顔を観察した。
 澄川深夜先輩。俺の一つ上で、この天文部の部長だ。中等部の頃一人ぼっちだった俺に声をかけ、それからずっと俺を気にかけてくれている恩人でもある。ふわふわと柔らかそうな焦げ茶色の髪。スッと伸びた鼻筋に、薄い唇。ラピスラズリのような美しい瞳は凛々しくて怖い印象を与えがちであるが、案外彼は人懐っこい性格で、俺のような後輩が相手だとふわりと幼く笑う。見た目にも成績にも人一倍気を使っており、何事も楽にこなしているようで実は影で必死に努力をしているような人だ。しかしそれを鼻にかけることもなく、寧ろ謙遜さえする。俺はそういう先輩が大好きで、尊敬していた。
 俺は先輩から目を逸らし、開きっぱなしの図鑑にぺたりと額を付ける。はあ、と息を吐いた。思った以上に震えていた。先輩のことは尊敬していたし、もちろん今でもしている。深夜先輩みたいになれたらいいなっていつも思っていた。人の視線ばかり気にして誰かの助けをひたすら待っている自分とは全く違う世界に住んでいる先輩に憧れていた。だからこのように同じ部員として一緒にいられて嬉しかった。ずっとこのままでいたいと思っていたのだ。それに――正直、先輩に夢を見ている部分もある。先輩は素敵な人だから、俺みたいな根暗じゃなくて、もっと素晴らしい人が似合うはずだ。男で、年下で、全然頼りない俺なんかよりも、卒業して綺麗な女の人と一般的な家庭を築いた方が幸せで――寧ろ、そうであってほしかった。俺なんかで妥協してほしくなかった。
「弥智? 具合悪いのか?」
 図鑑に顔を引っ付けている俺を見て、不思議に思ったのだろう。先輩は首を傾げながら、心配そうに声をかけてくれた。こんな俺にも優しくしてくれる先輩が神様のように思えて、泣きそうになった。だって俺、先輩に対して失礼なことばかりしてる。
「……いえ、少し、その……眠くて……」
 そんな先輩に嘘を付くのは躊躇われるが、本当のことなど言えるわけがない。俺はしどろもどろになりながらそう伝えると、先輩は「無理するなよ」と優しい声でそう返した。そして俺から英語の教科書へと視線を移し、再び静寂が訪れる。
「……」
 こんな気持ちになるのなら、とっとと告白してきてほしかった。もう今更元には戻れないのだ。先輩の告白には応えられないけれど、それでも後輩として一緒にいたい。そう答えたら、先輩はどんな顔をするのだろうか。傷ついた表情をする先輩が容易に想像出来て、俺の気持ちは更に落ちた。溜め息しか出なかった。

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