遮断される体温

「お、おはようございます……」
 放課後。プラネタリウムの重たい扉を両手で開けて、小声で挨拶しながらこっそり中を覗き込む。そこは電気が付いておらず、真っ暗だった。当然返事も返ってこない。早く来すぎたのか誰もいないらしい。
「はあ……何で来ちゃったんだろ」
 あの夢を見て、処理をし終えたときが一番虚しかった。男で、しかも尊敬している先輩で抜いてしまったのだ。最中はいつも以上に気持ち良かったけれど、終わってしまえば今までにないくらいの罪悪感で死にそうだった。いつもは髪の毛を整えて学校に来ているが、今日は混乱しすぎて寝癖をつけたまま登校してしまったくらいだ。この状態で先輩に会ったら多分、いつも以上に挙動不審になってしまう。はあ。また、溜め息。どうしよう。帰っちゃおうかな。そもそも天文部は研究発表や天体観測日以外は活動は自由だ。毎日毎日律儀に来る必要はない。先輩と出会うリスクを背負ってまで顔を出す必要はないのだ。
「先輩、来ないのかな……」
 来るならその前に帰るし、来ないならちょっとだけここにいようかな。そう思っていたときだ。
「呼んだ?」
「うわあっ!」
 自分しかいないと思っていたところに背後から声をかけられて、思わず大声を出して振り向く。そこにはクスクスと笑いながら「驚き過ぎだろ」と俺を見つめる先輩がいた。耳に優しい綺麗な声。いつもはその声を聞いて嬉しくなるが、この時だけは聞きたくなかった。ドキドキと心臓がうるさい。冷や汗が止まらなかった。
「別に毎日来なくてもいいんだぞ。テストも近いんだし」
「……」
「こんな時期にまで部室に来るの、俺以外じゃ弥智だけだよ」
「……」
「聞いてる?」
 先輩は扉の前で立ち尽くしている俺の横を通り過ぎて、振り向きざまに怪訝そうに首を傾げてみせた。聞いている。先輩の話を聞いてないことなんてこの人生の中で一度もない。でも、だけど、
『弥智、可愛い……もっと聞かせて、その声』
 ふとあの夢を思い出してしまって、どう反応していいか分からない。あれは夢だ。現実じゃない。分かってるのに、妙に気恥ずかしくなってしまって返事が出来ない。ただでさえ告白される夢を見ていて関わり方を決め兼ねていたのに、解決する暇もなくあんな夢を見てしまったから尚更。お、俺、先輩とどう関わってたっけ? 先輩の声かけに俺はただ先輩から目を逸らしてこくこくと頷くことしか出来ず、鞄をぎゅっと握りながら慌てて先輩とは遠く離れた席へ座った。あからさまだ。分かっている。分かってるけど。
「……なあ、お前最近変だぞ」
 ほら、先輩だって流石に今までみたいに見て見ぬ振りなんてしてくれない。先輩は俺が座っている席まで向かってきて、その隣の席に座り、俺の顔を覗き込む。この光景に何かデジャヴを感じて、息が止まった。
 プラネタリウム。隣に座る先輩。先輩の、視線。――これ、告白されるときの位置。
「へ、変じゃないです!」
 それに気付いた俺はぶんぶんと勢いよく首を振りながら、意味もなく立ち上がった。そんな俺を驚いたように見上げる先輩。違う。今は告白なんてされるわけがない。だってまだ五月だ。卒業シーズンじゃない。でも、俺は知っている。未来なんてふとした瞬間にすぐ変わってしまうことに。俺の対応一つで、簡単に。
「……弥智」
「っ、ご、ごめんなさい……その、あの……お、俺帰ります」
「弥智ってば」
 帰ろう。帰らなきゃ。そう思って俺が扉に視線を向けたとき、先輩は俺の腕を掴もうと手を伸ばす。
「ひっ……!」
 触られる。そう考えるより先に、俺は先輩の手を思い切り跳ね除けた。パシンッ、とプラネタリウムに響く乾いた音。そして、そこから続く沈黙。やってしまった。そう後悔してももう遅い。先輩は跳ね除けられた自身の手を見つめながら、どんどん冷ややかな表情になっていく。はあ、と先輩の溜め息がやけに鋭く聞こえた。や、やだ。やだ。
「あ、せ、先輩……違うんです、これは――」
「もういい」
 拒絶したわけじゃないんです。言い訳をするために言葉を並べようとしても、先輩はそれを拒否するように俺の言葉を遮った。今まで先輩は俺の話を最後まで聞いてくれて、こんなふうに遮ることなんて一度も無かったのに。それに、こんな冷たい先輩の目、初めて見た。どうしよう、どうしよう。焦る俺と反比例して、先輩はやけに冷静だった。そんな先輩は怠そうに立ち上がり、俺を見下ろす。
「最近弥智がおかしいのは気付いてたけど、でもいずれまた前みたいに話せるようになるって信じてたから。だから俺、何も言わないで待ってたんだ」
「っ、せ、せんぱい……っ」
「でもさあ、俺だって好きな奴に避けられて何も思わないわけないだろ」
 先輩はそれだけを吐き捨てて、鞄を手に取って扉へと向かっていく。離れていく背中。先輩が、先輩が行ってしまう。引き止めないと。このままじゃ戻れなくなる。分かっているのに身体は動かなかった。喉を絞められているみたいに声が出ない。ねえ、待って。先輩。離れていかないで。それだけを伝えればいいのに。
「……っ」
 ぱたん、と無情に閉まる扉。一人残されたプラネタリウム。防音仕様のおかげで一切音が入ってこないこの部屋で、俺は呆然とただ立ち尽くすしか出来なかった。
 ――好きな奴。さり気なく告白の言葉を伝えられたことより、先輩が自分から離れてしまったことの方が辛くて苦しくて、悲しかった。

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