そこには大きな愛がある

 とは言ったけど、な、なんでこんな時に限って頼まれごとされるんだよ……!
「もー、早くしないと先輩帰っちゃうー……」
 重たい段ボール箱を二つ抱えながら、俺はよろよろと職員室に向かって廊下を歩く。段ボールが邪魔で前が見えない。重たい。もう、こんなことしてる場合じゃないのに! 気持ちが焦って焦って、俺はまた泣きそうになっていた。
 放課後。空が少しずつ青からオレンジへと変わっていく時間帯。ようやく先輩に会える。そう色んな意味でそわそわしていた、そんな時だった。担任から雑用を頼まれてしまったのは。きっとあの時教室にいた生徒の中で俺が一番頼みやすかったのだろう。断れなかった自分も自分だが、ようやく先輩と話す勇気が出て早速探しに行こうと意気込んでいたときだったから、何だか気持ちが沈んでしまう。
 きっと今更先輩の教室に行っても、もう先輩はいないだろう。他に先輩がいる可能性があるのは部室とかだろうか。でもテスト前でもあるし、部屋で大人しく勉強しているかもしれない。うう、ホームルームが終わった直後に行けば、まだ間に合ったかもしれないのに! 頼み事をしてきた担任を思わず恨んでしまうが、そんなことをしていたって状況が変わるわけではない。とにかく急いでこの荷物を置いていかなければ。そう思って俺は足早に――と言っても端からは急いでいるようには見えないだろうけど――職員室へ向かっていた。そんな時だ。職員室の手前にある窓から、ふと外を見たのは。
「……あれ?」
 悠々と構えている桜の木。その周りに置かれたいくつかのベンチ。そして、そこを囲むように作られた円状の池。――そう。ここの窓から見えたのは、俺達がよく行っていた裏庭だった。……へえ、ここからでも見えるんだ。そう思って感心していると、視界にちらり、人影が見えた。
「……」
 揺れる茶髪。すらりと背筋が伸びた後ろ姿。窓から見えるのは背中だけで、顔は見えない。唯一分かるのは池を覗き込んでいるということと、茶髪の男性だと言うことだけだった。この学園は男子校だし、茶髪の生徒なんてここにはいくらでもいる。それでも俺はこの時にはもう既に確信を持っていた。――あの人は絶対に、深夜先輩だと。
「……っ」
 そう思った途端、俺は咄嗟に段ボールを太股に載せて片手を空かせ、窓を開ける。そして涼しい風が廊下に入ってくるのも無視して、俺は大きく息を吸いこんだ。もう考えるのは止めた。ただ、今ここで声をかけなければ、もう二度と先輩と会えなくなる気がした。
「先輩!」
 生まれて初めて、こんな大きな声を出したと思う。廊下を歩いている生徒たちも何事かとこちらを見るほどだ。普段であれば人目が気になって逃げていただろうが、今ではもうそんなことはどうでもいい。とにかく、先輩に気付いてもらいたい。そんな気持ちで嗄れかけた声で必死に叫べば、裏庭にいる茶髪の彼はぴくりと反応して、振り返った。
「や、弥智……?」
 よく耳を澄まさないと聞こえないほどの小さな声。それでも確かに先輩は俺の名前を呼んでいた。先輩だ。久しぶりの、先輩。そう思うと感極まって、上手く呼吸が出来なかった。嬉しくて、幸せで、そして少しだけ緊張する。
 でも、先輩の方は俺と目を合わせた瞬間、やはり気まずそうな表情をしていた。八の字に歪んだ眉。困ったような、そんな顔。やっぱり会いたかったのは俺だけで、先輩は会いたくなかったんだ。そう思うと胸が締め付けられるけど、でも、そしたら何でそんなところにいるの。そこは俺達の出会いの場所でしょ。ねえ、なんで? ねえ、先輩、せんぱ、
「――うわあ!」
 途端、ガタンッ! 廊下中に大きな音が響く。自分が今、段ボールを持っていたことをすっかり忘れていた。先輩と話すことに夢中になってついバランスを崩した俺は、重たい段ボールを二つとも引っくり返してしまい、そのままべちゃりと尻餅をつく。いたい。
「弥智!」
 運良く段ボールたちは自分に当たることは無かったが、裏庭にいる先輩はそんな俺の様子は見えていないのだろう。先輩の必死な声を聞いて、俺は慌ててむくりと立ち上がり、再び窓から顔を出す。今だ、今しかない。
「ま、待っててください」
「は? いや、弥智、怪我は? 怪我ない?」
「今からそこに行きますから、絶対に動かないでくださいね!」
 心配しているような、呆気にとられているような、そんな先輩の表情。俺は転げ落ちた段ボールなんて無視して、急いで踵を返し廊下を走った。もう頼まれ事のことはすっかり忘れていた。早く、早く行かないと先輩が逃げちゃう。それだけを考えて。
 元々走るのは得意ではない。昔から根っからの文化系だし、スポーツなんて体育の授業以外ではやったことがない。全力疾走なんて久しぶりだった。何度も足が縺れる。そのまま躓いて転びそうになるが、俺はそれをぐっと堪えて走り続けた。息が切れる。喉が痛い。それでも俺は足を止めなかった。だって、今話さないときっと、先輩に嫌われたままだと思ったから。
「はぁっ、はぁ、っ、せんぱ、い……ッ!」
 ――そして俺はようやく、裏庭に続く扉を開けた。

ALICE+