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「アイスバーグ、見て!」

一年よりもずっと長く感じられた暗い嵐を越えると、穏やかな海面が輝いていた。そして、前方の水平線のほんの少し手前。まだ点にしか見えない小さな影を指差すと、アイスバーグも目を細めて安堵の声を漏らす。まだ雨水の残るデッキの上を移動する途中に滑って転んだ私を拾い上げるように手を引き、そのまま目的の甲板先端へと連れて行ってくれた。

「ルーフィー!」
「ンマー、まだ聞こえねェだろ」
「ひひ、まだか」

フライングの叫び声に釣られるように、一人また一人とデッキに出てきてはルフィたちの姿に目を凝らす。朝靄が消えていくようにゆっくりと姿を現したひつじちゃんに歓声が上がり、皆が麦わら―と声を飛ばす。ティラノもその姿をよく見ようと、肩の上に移動して身体を目一杯伸ばしていた。

「ルーフィー!」

辺りの空気を全部吸い込む勢いで大きく肺を膨らませて、あの麦わら帽子に届くように真っ直ぐに声を飛ばせば、雲のように真っ白な歯を覗かせたルフィが答える様に両手を大きく左右に振り返してくれた。

「おーい!!ナマエー!!!」

嵐の中に飛び出して、誰も帰ってきたことがないと言われていたその地から何もかもを奪い返して生還した彼らを、祝福しない者は一人としていなかった。街の暴れん坊にも、彼らを迎えに出たその船にも、誰もが歓喜の声を上げた。

「アイスのおっさん!」

快活とした表情で名前を呼ぶルフィ。言葉を返さないアイスバーグの代わりにティラノが短い前脚をピンと伸ばすから、私の頬もふにゃりと柔らかくなった。

「バカバーグ‥」

そう呟いたフランキーとニコロビンに目をやった後、呆れ交じりの安堵の表情で彼らの行動を認めたアイスバーグ。

その、直後だった。

「うわぁ!!」

遂にと言うべきか、漸くと言うべきか。迎えの船が来たことに安心して力尽きたかのように、まるでお辞儀をするように船が甲板から二つに割れた。
何とかしてくれ、一緒に旅をしてきた仲間なんだと、残りの体力を全部使う勢いで頼んでいるルフィの声が頭の中で反響する。

「だったらもう、眠らせてやれ‥」

アイスバーグのその言葉が、静寂を生んだ。同時に、其々の心の中にはどんな想いが生まれたのか。知る由もないけれど、唯一知り得る自身の身体の中は大騒ぎだ。ピリピリと痛みが全身に走り、頭の中はぐわんぐわんと、船が揺れたわけでもないのに酔ってしまいそうなほど揺れている。

「見事な生き様だった」

それは、別れの時を意味していた。ルフィは静かに目を閉じ、分かったと、それ以上何も言わなかった。
黙々と準備が進められ、船に火を渡して。海の底は暗くて淋しいから自分たちが見届ける。そんな風に声をかける優しく凛としたその姿が、余計と胸を締め付ける。いっそのこと、所詮他人事だと笑い飛ばせたらどんなに楽だろうか。


ごめんね


ひとひら、ふわりと舞い降りた雪は冷たくて、けれどやけに暖かくて。
再び聞こえたあの声も、背を撫でるように温かくて。彼らの聞き間違いではないと告げるように、溢れる思いをその声に乗せて、見守る皆の耳に届けられた。その優しい声は、優しく降り注ぐ雪のように仲間の元へと降り注いでいた。


・ 
 ・
 ・


再び聞こえた声に、頭の中はむしろ鮮明になっていっているようだった。
マストは折れ船は傾き、灰が空高く舞っていく。その灰は雪となって海に、麦わら達に、優しく降り注いでいた。
船の事となると途端に泣き虫になるナマエが、燃えていく船の最期を静かに見守っていた。それが彼女なりの礼儀だったのだろう。
真っ直ぐに見つめるその瞳に赤く燃え上がる船の姿を映して、何を思ったのかは分からない。ただ、トムさんの所にメンテナンスに来ていた頃から見ず知らずの船が廃船島に壊れて流れ着くことを嫌っていた。他人の船だとしても、修理に出された船が直らないと知れば、いつも逃げるように海へと潜り数時間帰ってこないような奴だった。逆に部品が別のものとして生き返った時には、完成したことよりも新しい命として生き返ったことを誰よりも喜んでいた。あいつにとって、船は特別だ。だからこそ、船が壊れる時は自分の身体が千切れたんじゃないかと思うくらいに痛みが走るらしい。ナマエはあの船をえらく気に入っていた。繋がる左手を握る力が次第に強くなっているのがその証拠だ。加減を忘れたそれは指先が痺れるほどだったが、彼女や麦わら達の痛みを思えばこんなものは屁でもない。


ぼくは本当に幸せだった


けれど彼らの元に最後の一言が届けられた時、ナマエの握る力は緩み、その手はおれの手からするりとすり抜けた。そこには麦わら達の姿が見えた時の賑やかさは跡形もなく、奴らの涙の分だけ口角を上げて、息もしていないんじゃないかというほど静かに、そこにいないんじゃないかと思うほど儚く、立ち尽くしていた。
‥今はこの左手で、しっかりと掴んでおかなくてはいけない気がする。あの人の左手とはいかないが。あの男の左手とはいかないが。

「‥子供が手を離すな」

そっと触れ、持ち上げた小さな掌は、いつも以上に冷たくなっていた。