06

実に平和だと笑って過ごしていたのは、次に来る事件の前の平穏だったのか。そう思いたくなるほど、それまでと状況は一変した。
いつも隣にいたはずのニューゲートがベッドに居なくて、妙なざわつきが心に走る。甲板に出ると、船の上のみんなの心を映したかのように、薄暗い空模様が広がっていた。

「ティーチの奴が、やりやがった‥!」
「ティーチが、なあに?」

荒れそうなその空の下、エースの部下であるティーチが鉄の掟を破ったと聞かされる。零しかけの欠伸も、おはようの挨拶も、お腹の底まで引っ込んだ。そして、それらは石となりお腹の底の火山に転がり落ちていく。

「ナマエに何言ってんだバカ野郎!オヤジ呼んで来いよい!!」

血相を変えたマルコが仲間に怒鳴りつけていたけれど、彼の制止も聞かず私は自分の足でニューゲートの元へと走った。

「ニューゲート!!」

息子の死に、流石に漏れ出す怒りと悲しみ全てを抑えられてはいないものの、少なからず動揺しているその様子は息子に微塵も見せていないらしい。どう見たって私の方が動揺していた。心配してきたつもりが、心配される側へと早変わりだ。落ち着けとその大きな掌で背中を撫でてくれる。落ち着いてよく聞けよと何度も私の背を擦りながら、ニューゲートが天国に行った息子の名前を呟いた。

「‥は、‥なん、で‥」
「落ち着け、ナマエ」
「何でサッチが‥!何でティーチが、サッチを‥!!!」

悲しいのか苦しいのか、何に怒っていいのかさえもわからない。感情の一つ一つがぐちゃぐちゃに絡み合って、握りしめた拳から滴る血液が船を汚した。その血を足の裏で擦ったニューゲートが、怒りに任せてくれるなよと、私が抜け出さないようにきつく身体に腕を回す。

「能力者の仲間入りだって笑ってたのに‥そしたら一緒に遊んでくれるって言ったのに‥!!」

大きな大きな胸元を何度も叩いて、その胸元にしがみつく。涙と掌の血液とニューゲートの汗が混じりながら彼の腹を伝う様子は、まるで自分の感情を体現しているみたいで、それが床に落ちると同時に私の感情のいくつかも床に落ちていった。

「ティーチは、ニューゲートの息子だよね‥?」
「‥ああ、大バカ息子だ」
「‥息子なのに、何で‥!、こんなの、嫌だよ‥」

ああそうだなと呟くニューゲートの心臓が、ドクンドクンとうるさいくらいに鳴っている。息子同士でこんなことになって平気なわけないんだ。私なんかよりずっと痛いのに、ずっとずっと痛いのに。血のついた手の平で、彼の背に直接手を伸ばす。

「‥ニューゲートの背中は、私が擦ってあげるね」
「‥おれの背で血を拭くつもりか」

返事の代わりに、ニューゲートがしてくれたように何度も何度も擦る。サッチは、どんな気持ちだったかな。ニューゲートに出会って、白ひげの息子になって、どうだったかな。私はね、優しいサッチが大好きだよ。私のことを守ってくれたその背中も、おにぎりを作ってくれるその温かい手も、セットに時間のかかるその髪も、ニューゲートのことをオヤジって嬉しそうに呼ぶその顔も、全部大好きだよ。

「‥ありがとうよ、ナマエ」

ニューゲートも、彼との思い出を思い出していたのかな。ティーチとの思い出も沢山あるね。いろんな想いを、きっとその一粒に全部乗せたんだね。私の腕に、一粒だけ大きな雫が落ちて、音もなく弾けた。




甲板に戻ると、吹き荒れる風と共に船の上の熱気もあちらこちらで渦を巻いていた。

「やめろよい!エース、頭を冷やせ!!」

マルコをはじめ、息子たちがこぞって興奮するエースをよってたかって取り押さえようとしていた。

「離せ!!おれの隊の部下だ!!」

二番隊の部下であるティーチの不始末は、体調である自分の責任だというエース。私も先ほどまで昂る感情をどうにもできずにいたのだ、エースの気持ちは少しは分かる。

「殺されたサッチの魂はどこへ行くんだ!!」

放って置けないと仲間の静止を振り切るエースの様子に、私は、掴んでいたニューゲートの服の裾をキュッと握り直した。エースがこの船で目を覚ました時、最初に話しかけたのはサッチだ。そう言う思い出は、意外としっかり残っているものだ。白ひげの息子として苦楽を共にしただろうし、ティーチとだって同じ隊の者として嫌な思い出なんてほとんどないはずだ。興奮するなと言う方が難しい話だろうと、なんとなくは分かる。

「エース‥いいんだ今回だけは」

ここまでを隣で見ていたニューゲートが、重く口を開く。

「妙な胸騒ぎがしてなァ」

落ち着いた声で諭すニューゲートにも、エースはさらに熱を増して言葉を返す。

「あいつは仲間を殺して逃げたんだぞ!!何十年もあんたの世話になっといて、その顔にドロを塗って逃げたんだ!!」

何より、親の名を傷つけられて、黙っていられるか。

エースの言葉が、どしんと肩に乗った気がした。見上げたニューゲートもまたエースの言葉に何か思うことがあったのか、けじめをつけると船を飛び降りたその背中にそれ以上は何も言わなかった。

「おい待て!!戻れ!!エース!!」

飛び出していった背中が振り返る事は無くて、間もなくしてその後ろ姿も見えなくなった。どうすんだよ、何をだよと、皆もまだ困惑しているようだ。この船の上では当然守られるものだと、禁忌を犯す子がいると考えてすらいなかった。鉄の掟を破ってまで、どうしてティーチはサッチに手をかけたのだろう。

「ナマエ、お前は手当てしてもらってこい」

すっかり忘れていた自分の掌の汚れ。小さく頷いて、船医のお姉さんのお部屋に行くことにした。手当は勿論だけど、家族同士で何か話をするのだろうと思った。私が開いた真っ赤な掌に大抵の子はその様子の察しがついたようで、行って来いよと呆れたように口角を無理やり上げて送り出してくれた。落ち着くわ、と出してくれたハーブティーの香りに、また少し涙が出てきた。

「船長の元に行く?」
「ううん。息子と話してるから、邪魔しないよ」
「貴方が泣くのを見るのは、私たちも辛いわ」
「サッチさんも、あなたの笑顔が大好きだったのよ」
「本当‥?」

お姉さんたちは、怪我をしたサッチがここに来るたびに飾ってある写真を見て次はいつ来るかと楽しみにしていたと教えてくれた。

「よく話してくれたのよ。」
「お風呂に入って、すってんころりんした時のこととかね」
「違うよ、あれはサッチがお風呂場の床いっぱいに石鹸こすりつけてるから!」

こうして話してみると、床に石鹸を一生懸命こすりつけているサッチの姿が頭に浮かんで自然と笑えて来た。涙を流しながらでも、悲しいことがあった後でもちゃんと笑えるんだな。

「ナマエよりずっと大きなたんこぶを作って二人で入ってきた時は、私たちもずっと笑ってたわ。」

お姉さんたちも無理した笑顔ではなくなっていた。やっぱり、サッチはすごいな。これからは、サッチと一緒にしてきたことをたくさん話そうねとお姉さんたちと約束した。

「ナマエ、治療は済んだか」

話を終えたのか、迎えに来たニューゲートが手招きして、寄っていく私を抱え上げる。

「お話、終わったの?」
「ああ。お前も少しはマシな顔になったな」
「うん、ありがと」

世話かけたな、と扉に手をかけたニューゲート。私も彼女たちに手を振って、その部屋を後にした。

「ティーチの件は、エースのやりてェようにやらせる」
「うん、分かった。」
「この先の航海で姿を見かけても手は出すなよ。アイツにけじめをつけさせてやれ。たとえ何があったとしても、だ」

何かを予感しているのか、私に念を押す。

「分かった、約束する」

小指を立てて、彼の大きな小指にちょんと触れる。指切りげんまん、の声に合わせて、彼の手も上下に揺れる。子どもの頃に戻ったみたいだった。