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喉元に刃を突き付けられた瞬間、敵の隣にしゃがみこんでいた少女が顔を上げわあおと言葉を漏らした。純粋に子供の目で見た感想なのだとどこかで納得している自分がいたけれど、屈辱的だった。足に咲いた腕は骨を折る音を鳴らして、激痛が走った。けれど、今ここで逃がすわけにはいかない。その一心で敵の足に手を伸ばした。
「ごめんねコブラ」
「謝ることはない。己の思うままに、だろう?」
「はっ、そうだった!」
為す術もなく倒れ込む私の前で、少女は国王とニコロビンにをの小さな手をひらりと振った。
「動ける?」
小さな歩幅でこちらに歩み寄り隣に再び腰を下ろすと、焦点の合わなくなった私の視界に入るように顔を覗かせ問いかけてきた。
「‥どうして、」
どうしてニコロビンと手を繋いでいたのか。
どうして国王を助けなかったのか。
どうしてここに残ったのか。
そのどれをも聞きたく、どれをも聞けず、辛うじて音になった言葉だけが震える声として空気に触れる。それがどう届いたのか、敗北を噛み締め地に掻く跡を残す私を横目に、再び地面に落書きをしながら彼女はぽつりと呟いた。
「ニコロビン、強かったね」
まるで、世間話の一つでもするような声色で。
「お姉さんは、ちょっと弱かったね」
挑発するような気配もなく、真っ新な本心とでも言うような声色で。
「皆と広場に行けばよかったのに」
その方がここで地に這いつくばるようなこともなかっただろうに。彼女はそう言った。
「あそこで、退くことは出来ません」
「ハハハ、あの女にやられたようだな」
口を開いた彼女の声は、砂埃と共に現れた黒のコートを身に纏うその男の言葉に掻き消された。そして、足元に這う私と小さな彼女に影を落とすように見下ろした。
「ありゃ、ワニ坊」
「子どもに子守をされる海軍とは、また見物だな」
「‥ルフィは?」
少女の言葉は聞いていなかったかのようにこちらに視線を落としたクロコダイルは、嘲るように口角を上げて言葉を吐く。
「ケムリ野郎は逃げ出したか?」
「‥!」
ここで言い返しても意味はない。頭ではそう理解していても、視線は尖っていく。少女は何を思ったのか、隣で小さくため息を零した。
「負け犬は正義を語れねえ。此処はそういう海だ」
「またそう言う酷い言葉使う」
「クハハ、お前に言われるよりは怒りも湧かねえだろ」
お前程非道じゃないと移した視線の先にいた少女は、易々と彼の肩に飛び乗り人を見下す彼の表情を崩すように頬を引っ張った。
「遊びはここまでだ」
鉤爪で彼女を吊るし上げ私の方へと少女を放り投げると、低い笑い声を響かせながら長いコートを靡かせて通り過ぎていく。
「大佐のこと言われたの、悔しかったんだね」
その姿を見送るだけの私の頭を撫でながら、少女がふわりと言った。そして、再び無垢な笑顔でこう言った。
「本当の事だもんね」
と。クロコダイルがスモーカーさんのことを言った時の二人の会話に、漸く入り込めた気分だ。その台詞は酷いと彼女が止めてくれているのだと勝手に能天気に考えていた。彼女より己が言葉にする方が痛手もないと嗤ったクロコダイルの言葉が目の前の彼女と繋がった瞬間、その言葉の意味を痛感している。嫌味ですらないその笑顔と、横たわるだけの自身の姿が相まってより情けなくその丸い瞳に映されている。
「っ、そんなことありません!!」
大佐はそんなことを言われる人ではない。
反論しようと口を開く私よりも先に、彼女がさらに言葉を重ねた。
「でも、ロビンも国王も行っちゃったよ」
スモーカーさんを連れ出し、捕まる国王の隣でニコロビンと手を繋ぎ、クロコダイルに恐れることもなく話をする。怖いものなしの子供、というだけでは収まりきらない異質な空気が彼女を取り巻いていた。
「息子が負けたら、親も弱いと思われるんだって。だから息子が強くならなくちゃダメなんだって」
部下の弱さは上司の弱さだと、彼女は言いたいのだろう。誰の言葉を引用しているのかは分からないけれど、柔らかく鋭いその言葉は私の言葉を串刺しにして喉の奥に押し込めた。
「私、スモーカーさんも海兵さんも好きだよ。だから、もっと強くなって。上司を負け犬にさせないであげてね」
ずっと撫でられていた手を止めて、優しく笑った彼女が私の身体を起こす。落とした剣の近くに私を寄せるその力は、とても子供のそれとは思えないほどで驚いた。
「ナマエ、お前此処で何やってんだ」
「あ、ルフィ」
剣に手を伸ばしたその時、目の前に麦わらのルフィが姿を現した。
得体の知れない少女に驚くことはもうないけれど、麦わらとも顔見知りと知ってこの子の正体は謎めく一方だ。スモーカーさんは彼女について何を知っているのだろうか。急いでいるという麦わらが裸足であることを気にしてその足の甲をすりすりと撫でながら、がんばれーと場違いな緩さで応援の声をかけているその姿に軽い恐怖を覚える。
この子は一体、誰の味方なの‥?
「それよりどこ行った、ワニ‥!」
麦わらのその言葉に答える代わりに、彼と共に私を見つめた。クロコダイルを阻止出来るのは、目の前の確保すべきこの海賊しかいないとわかっている。だからこそ少女はそれを伝えるために、海賊は倒すべき敵を在処を聞きだすために、その真っ直ぐな視線を私に浴びせているのだ。
負け犬は正義を語れねえ。
息子が弱いと、親も弱いと思われるんだって。
頭の中に沸き上がった言葉達と手にとった刀を振り上げるしかできなかった己の姿が、剣を握る手を緩めていく。悔しさを押し込めて葬祭殿の方角を指し、そちらへ向かう少年の後ろ姿だけを少女と共に見送るという屈辱的な選択肢しか、残されていなかった。
「何が、正義‥!」
捨て去りたい感情を己の額に込めて地にぶつける私を、隣で見ていた彼女が小さく驚嘆の声を上げる。なりふり構わず涙を流した私の横で、地面に滴り落ちる鮮やかな赤色が少しずつ酸化していく様を見ながら、大人は大変だねと呟いた。
「あなたは、何者なのですか‥」
疲弊した身体が意志に反して彼女の手を掴む。もしかしたらこれが本来の意志なのかもしれない。心の底に落ち着いていたその疑問を投げかけると、彼女は変わらない笑顔で私の手を握る。
「私にも、分かんない。」
曇りのない笑顔が、その先の言葉を奪っていくようだった。