軍師と薬師




 心海は疲れていた。
もともと得意ではない人付き合い。終わらない戦い。無限に降ってくる仕事。
(それでも、私がやらなければ……)
 珊瑚宮心海は海祇島の代表。現人神の巫女。
海祇島の民を守るためには心海が動くしかない。
民の声を聞くのも、それを叶えるために策を練るのも、周囲に指示を出すのも、心海の役目。

 疲れた目をぐぅっと瞑り、長い溜め息を吐く。
少しだけ時間ができた。
こんな時は秘密の部屋で、思いっきり兵法を読み耽るに限る。
心海はふらりと立ち上がると、よろよろと歩き出した。

「珊瑚宮様! こんにちは!」
「はい、こんにちは。最近の様子は如何ですか? 困ったことがあったら、なんでも言ってくださいね」
 どんなに疲れていても、民と接する時は笑顔で、不安にさせてはいけない。
海中を泳ぐ魚のように優雅に。
本当は一気に走って秘密の部屋に向かいたい気持ちを抑えてゆったりと歩く。
人気のないところまで来た心海は、限界を迎えた。

「――珊瑚宮様?」
抵抗軍大将のゴローの、妹。
突然声をかけてきた彼女について、正直あまり交流がないので、部下の家族くらいの印象しか無かった。
(えぇと、確か、名前は……)
「珊瑚宮様! 大丈夫ですか!?顔色が……!」
「え……?」
心海は壁に凭れてぐったりとしていた。
「誰か人を呼びましょうか?」
頭がぐらぐらとする。
「いえ……大丈夫です……誰にも言わないでください…」
「大丈夫じゃないですよ……!」
 そのままどうにかしてどこかへと行こうとする心海は、後ろから止められた。
「珊瑚宮様、失礼します」
ふわりと体が浮いた。
頭が揺れ、気持ち悪さが押し寄せる。
「う、うぅ」
「ちょっとだけ我慢してください!」


「……?」
気がつくと、知らない天井を見上げていた。
否、心海は布団の中にいた。
秘密の部屋に行こうとしていたのに、ここはどこだろう。
起き上がると僅かに頭が痛むが、気持ち悪さは消えていた。
「ここは……?」。
窓から外を見ると、望瀧村のようだった。
(私は……そう、確かコハルさん、という名前でした……彼女と会って……それから……ということは……)
「コハルさん……?」

「……ん? はーい! 珊瑚宮様、お加減はいかがでしょうか?」
 ポツリと呟いたのが聞こえたのか、一拍おいてから返事があった。隣の部屋にいたのか、トットッと足音がして、コハルが姿を見せた。
「おはようございます。先程よりは顔色が良くなりましたね」
「ここはコハルさんの薬店の中でしょうか?」
「はい、そうです。珊瑚宮様が大変お辛そうでしたので……勝手ながらお連れしてしまいました……」
「いえ、大丈夫です……おかげで情けない姿を村の皆さんに見せずに済みました」
「情けないだなんてありませんよ、辛い時は休んでください」

 その後コハルはお茶を入れてくれた。
「お茶を飲むと落ち着きますから」
 ほこほこと湯気をたてる湯呑みを手に取ると手のひらがじんわりと熱を持つ。
ゆっくりと口に含み、味わってから飲み込む。
ふぅ……と息を吐く。
「苦手な味ではないですか?」
「はい……とてもおいしいです……」
ほんのりと甘い香りのするお茶を、時間をかけて飲み干す。
(お茶を一杯飲むのに、こんなにゆっくりしたことはないかもしれません……)
 そんな暇があったら次の仕事を早く終わらせて、エネルギーの回復に努めたい。
 普段ならそう思っていたが、今はのんびりと目を閉じてお茶を味わっていたい。

「珊瑚宮様。手を貸してもらえませんか?」
「手……ですか?」
 湯呑みを置いて右手を差し出すと、コハルの手で包み込まれた。
「……手が冷えていますね。手袋を外しますよ」
素手が外気に晒される。
 コハルはオイルの入った瓶を取り出すと少量出して心海の手に塗り込み始めた。
最初は優しく撫でるように。
うっすらと力を加えていき、全体を摩る。
親指の付け根辺りを指先でクッと指圧すると、鈍い痛みが走る。痛みに指が強張ったのを察してか、指圧の力が緩む。
 白くなめらかな手袋に隠れている手も、ずっと書き物をしているのだからとても疲れている。
指を絡ませて手のひら全体をグッと反らせば、やはり少し痛いが、大きく伸びをしたかのように気持ちがいい。
爪の両端をきゅうきゅうと押すと、だんだんと指先が温まってくる。
 心海は温められていく自分の手を眺めていた。
先程少し眠ったはずなのに、また眠くなってしまう。
右手を温め終わってそっと膝へ降ろされると、自然と左手を差し出していた。

「珊瑚宮様、ちょっと話を聞いてもらえませんか?」
 左手を摩られながら、心海はとろとろとした意識の中でコハルの声を聞いていた。
「……ええ、構いませんよ」
不平不満を聞くのは慣れている。
「鶯宿薬店の、先代店主をご存知ですか? 私のお師匠なんですが」
「えぇ……私はあまり会ったことはありませんが……鶯宿さんは素晴らしい薬師だったと、私も聞いています」
「私は鶯宿薬店を継ぎました。でもまだお師匠のようにうまく動けるわけじゃありません。知識も技術も全然足りません……比べられるのも仕方ないことだとわかっています。……それでも、」
 撫でていた手を、両手でそっと握る。
「私は、ボロボロだった余所者の私を受け入れてくれた兄と、海祇島の人に恩返しがしたいんです」

「私は元は余所者です。そして正式な抵抗軍兵士でもなく、しがないただの薬師です。だから――珊瑚宮様がちょーっと愚痴を言っても大丈夫な存在だと思うんです」
 誰にも言いませんから、ちょっとだけ、吐き出してみませんか?
甘い誘惑のようだった。
コハルの両手が再び心海の左手を温める。

 心海は、おそるおそる口を開いた。
もうちょっと休む時間があったら嬉しい。そんな軽い愚痴のはずだった、のに。
 気がつけばそれはそれはもう大量に愚痴を吐いていた。
止めようとしても止まらない。
現人神の巫女であることの重圧。
それは自分でなんとかできるのでは?というような些細なことを相談してくる人々。
でも口には出せない、人の顔色を窺い続ける自分。

 やがて、話す速度がだんだんと途切れ途切れになってくる。コハルはお茶のおかわりを注いで心海に差し出した。
話し疲れてカラカラになった喉が潤うと、長く吐いた息とともに澱んだ気持ちも吐き切った。
心海は肩の力を抜いた。
「たくさん、愚痴ってしまいました……」
 収まった勢いの代わりに、今度は後悔の念が滲み出す。
「でもスッキリしたでしょう?」
「……はい……」
「モヤモヤした気持ちを溜め込んでしまっては体に毒です。何の解決にならなくても……私で良ければいつでも
聞きますから」
「コハルさん……ありがとうございます……このこと、
ゴローには内緒にしてくださいね」
「勿論です。二人だけの秘密ですよ」
「二人だけの秘密、ですか。うふふ、なんだか魅惑的な響きですね」
 少しのつもりが、長めの休憩になってしまった。
名残惜しいが、戻らなければいけない。
「お茶、ご馳走様でした」
「はい、またいつでもいらしてください」
「……はい、お言葉に甘えて、またお邪魔しますね」
 心海が逃げ込める場所が、ひとつ増えた。
「あ……そういえばあなたは先程自分のことを『余所者』だとか『しがない薬師』と言いましたが、訂正させてください」
「え?」
「あなたも、私が守るべき民のひとりであり、抵抗軍を支える大切な役割を担っています。頼りにしてますよ」
「……っはい!」
 帰ればまた終わらない仕事が待っている。
それでも心海の足取りは、いつもより軽かった。




*20231215