名も知らぬ君へ
見上げれば、こんなところからでも鳴神大社の神櫻が崖に力強く根を張っているのを見ることができる。
それくらい下の方、もはや海の方が近い、崖に囲まれた谷底をゆっくりと進んでいく。
辺りに薄青の花が淡く光るその場所には、刀が地面に突き刺さっていて、傍には光を亡くした神の目が置かれている。
ここを根城のひとつとしている白猫が、にゃぁんと小さく鳴いた。
荷物の中から煮干しを取り出すと白猫の耳がピクリと反応した。
サッと近付いてきて、手から直接食べてくれたりもする。
犬の獣人であるせいか薬の匂いがするのかコハルは猫に嫌われがちだが、この白猫は人慣れしているのかコハルをあまり怖がらないようだ。
毛並みも良いし、この場所だけでなく、誰かの家にお世話になっているのかもしれない。
前に万葉に教わった撫で方を思い出しながら、お尻の辺りをポンポンと叩いてやると尻尾がピンと立つ。
ゴロゴロと喉を鳴らしている音も聞こえた。
寒い日も減り、ぽかぽかとあたたかい季節だ。
ひらり、とコハルの頭に桜の花弁が一枚落ちてくる。
この場所からはもう神櫻さえも見えないが、影向山にはあらゆるところに桜の木があるから、風に乗って花弁がここまで流れてくる。
万葉が稲妻を出る前にはここに来ているだろうし、万葉がいない時には誰かが――たぶん神里家の家司辺りが――定期的に訪れて手入れをしてくれているのだろう。
ころころと地面を転がっては神の目を覆い隠さんとする薄桃色の花弁を、コハルは軽く払っておいた。
(何が好きかとか、聞いたことないからなぁ)
神の目の前に、そっと鯛焼きを供える。
(甘いもの嫌いだったらごめんね)
それを確かめるつもりは、なかった。
ここに佇む神の目と刀の持ち主である青年のことを、コハルはよく知らない。
どんな顔をしていたのかも、名前すらも。
ただ幕府軍に追われていた万葉の手当てをしながら、その青年についてと、光を失った神の目に再び光を灯したいと聞いただけだ。
コハルの力でその神の目が光ることはなかった。万葉も稲妻を出た後、神の目が人の強い願いに反応するのではないかといろいろ試したが、結局何も起こらないまま稲妻に帰ってくることになった。
今でも鮮明に思い出しては背筋がぞわりと粟立つ。
旅人に迫る、雷電将軍の無想の一太刀を共に見た、万葉の後ろ姿。
あの時、万葉の背中を押したのは。
そして力を貸してくれたのは、守ってくれたのは、
……きっと。
にゃぁん。
「……さて! そろそろ行かないと!」
パッと立ち上がると供えていた鯛焼きを回収する。置きっぱなしにするわけにもいかないので。
また花弁が数枚落ちてくる。
猫の頭を最後に撫でて、コハルは来た道を歩き出した。
今度は白猫が、お腹を見せてくれたらいいな、なんて、贅沢だろうか。
*20260104