雨の夜



夜が来た。
暗闇の中、パタリ、パタリと雨粒が屋根を叩き始める。
その数分後には外はゴウゴウと風が吹き荒れ、家屋が揺れているような気さえしてきた。
「……っ……」
 自然の声を聞くことであらゆる危険を回避してきた万葉ではあったが、このような嵐の日は憂鬱だった。
小さな自然の音は風と雨によって掻き消され、頭痛や耳鳴りを引き起こす。早く寝てしまおうと布団に潜り込んだはいいが眠れそうもなかった。

 抵抗軍に助けられる前の、幕府軍から逃げていた日々を思い出す。寒くて、心細くて、まともに眠ることすらできなかった。恐怖、虚無、ピリピリと神経を研ぎ澄ませて少しずつ進む。
楽ではないが気ままで穏やかな旅だった、はずなのに、どうして。
耳の奥の痛みに引き摺られて、嫌なことをどんどん思い出してしまう。
「…………うぅ、」
 まだ旅の仲間がいた時は辛くても耐えられた。
その仲間すら失った今では、もう。
 体を丸めて、拒絶するように、殻に籠もるように、耳を塞いだ時だった。
 ――トントン。
風の音の中、近くから控えめな音を拾った。
「万葉さん、起きてますか?」

「コハル、どの?」
音を立てないようにそろそろと襖が開く。
「今晩は冷えますから、お布団の追加はどうかと思いまして」
「大丈夫でござる、気を遣わずとも、」
「……眠れないですか?」
「う……うむ……少し、頭痛はするが……寝てしまえば問題ないゆえ……」
「……ちょっと待っててくださいね」
コハルは万葉の言葉を遮り、どこかへと歩いていってしまった。

 待つこと数分、コハルは大きな盥を持って現れた。
「眠る準備をしましょう」
モウモウと湯気を上げる盥を布団の枕元に置いて、コハルはその横に座った。
「その頭痛がこの天候によるものだったとしたら、耳を温めることで緩和できるかもしれません」
「耳を温める……」
「顔や耳に触りますけど、大丈夫ですか?」
 万葉にとって、耳は命綱であり急所でもある。
耳を他人に触られるのは、抵抗があった、が。
コハルが、決して自分を害したりはしないことを、この数日でもう知っている。

「仰向けに寝てください」
 掛け布団を胸の辺りまで掛けられる。
「ゆっくり、呼吸をしてください」
ちゃぷんと水の音がする。
「首の下と、目の上に手拭いを置きますね」
頭を持ち上げられ、首の下に手拭いを挿し込まれる。
しっかりと絞られた手拭いの熱が、目と首を覆う。
「……う、ぁ……」
「熱くないですか?」
「大、丈夫」
思わずほぅと息が溢れた。
首から肩に、熱がじわじわと沁み込んでいく。
強張っていた皮膚の奥で血が流れるのを感じる。
「耳にも当てますよー」
横髪をよけて、熱い手拭いが両耳にも当てられる。
ゴゥと音が籠もり、雨風の音が遠くなる。
頭の鈍い痛みが次第に気にならなくなってくる。
 じわり、じわり。
(あたたかい、というのは、こうも安心するものなのか)
――だって逃げている間は、寒くて心細くて仕方なかったのだ。
自然と呼吸がゆっくりと深くなる。
手拭い越しに耳をぐいぐいと拭っていく。
痛いかと思ったが、不思議と心地が良い。いや、圧されればたまに痛いこともあるが、すぐに痛みは気持ちよさになっていく。
外からの熱だけではない、耳の中から温まっていっているのがわかる。
(体が……ぽかぽかする……)
耳が充分に温まると手拭いを外され、さっぱりとした空気が通った。

 微かに甘い香りのするオイルを纏った手が、温められた耳を擦り、あちこちつまんでは引っ張り、ぐるぐると回して。更に顎裏や頬をむにむにと通り、ついでとばかりに肩や鎖骨周りを優しく指圧していく。
触れられたところから力が抜けて、もう指一本動かすこともままならない。体が布団に沈み、まるでてろんてろんのはんぺんのようだった。
 髪に手を差し込まれ頭皮をぐりぐりと動かしていく。
十本の指でぐぅっとツボを刺激され、呻き声が漏れた。
「痛くはないですか?」
たまに痛い、でも、気持ちがいい。そう伝えたいのに、口からはふにゃふにゃと意味の無い声しか出てこなかった。

 最後に、暖かい手がくしゃくしゃになった髪を整えるように、そっと梳る。
寒くない。痛くない。
人の手で撫でられる、「ひとりじゃない」という安心感。
(……あたたかい)
目がじわりと熱を持って、鼻の奥がじんと痛む。
……温められて、溶かされる。
万葉の意識は雪のように溶けていった。

    *

(……眠った、かな)
 すぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。
無事に眠れたらしい。
ズンと重さを増した万葉の頭を持ち上げ、枕を挿し込み。
使った手拭いや盥をそぉっと遠ざけながら、暗い中で微かに見える寝顔を観察する。
万葉が薬店に連れて来られた時にあった酷いクマはもう消えていた。
怪我も、右手の火傷痕を除けば殆どが完治している。
強い雨はまだ降っているが、もう万葉の眠りを妨げるほど煩いものではない。

 ――それでも。
今の稲妻は万葉にとっては非常に危険な場所だ。
海祇島を出て、抵抗軍の管轄を越えれば、幕府軍がまた彼を襲うだろう。
(……ここは安全だから、どうか今だけでも……)
――彼が穏やかに眠れますように。
コハルは万葉の濡れた目尻をそっと撫でた。



*20231215