06

 あれから、教室で鳳くんに見られている、と思うことが増えた。視線を感じて振り返ると、決まってそこに彼がいるのだ。そして私は振り返ったことに後悔して、急いでその場を去る。
 理由はわかっている。たまに、何か言いたげに私を見ていることも知ってる。でも、どうしようもなかった。見られているという事実に、私はただ恐怖していた。

「舞。少し、付き合ってください」

 とある日の放課後、私は優奈に手を腕を引っ張られた。私は、戸惑いながらも優奈について行く。

「ゆ、優奈……?」

 優奈に着いて行って暫くして、どこに向かうのかがわかった私は抵抗した。

「いやっ」

 視界の端に入るその場所。ずっと、今まで避けて来た場所。私が行きたくなんてない場所。

「舞、」

 優奈は強く私を引っ張る。有無を言わさないその様子に、従うことしかできなかった。
 今まで、こんなことはなかったのに。
 たどり着いた場所。そこは、テニスコートだった。そこでは、彼等や兄がテニスの練習をしていた。さっ、と彼等から目を逸らす。
 私と優奈に気がついた沙梨が、近くに来た。

「舞。ちゃんと、見てください」

 酷く優しい優奈の声。いやだ、怖い。見たくなんて、ない。

「舞ちゃん」

 沙梨の懇願する声。表情を見なくたってわかった。沙梨は今、きっと悲しげに顔を歪ませている。沙梨に、大事な友達に、そんな顔をさせているのはだあれ?
 私は、そっと、恐る恐る、顔を上げた。

 跡部景吾、忍足侑士、宍戸亮、向日岳人、芥川慈郎、樺地宗弘、日吉若、鳳長太郎、滝萩之介。その他大勢の平部員。

 みんなみんな、いた。唯一姿が見えないのは、榊先生くらい。
 彼等は、テニスの練習をしていた。
 私は今まで、実際に彼等がテニスの練習をする姿を見たことはない。見たくもなかったし、避けていたから。けど、知っていた。彼等がどんな風に戦い、どんな風に勝って、そして負けるのかを。それが私は、怖い。どうして私は、そんなことがわかるの。
 体が震える。

 嫌だよ。私は、あなた達の存在を認めたくない。認めてしまえば、ここが、“テニスの王子様”の世界だと認めてしまうことになるから。そうすれば、優奈や沙梨、兄や両親の存在を否定してしまうことになってしまうから。
 そして、私が異端だということを認めざるをえなくなり、私自身の存在をも否定してしまうことになる。

 だから、私は彼等を拒絶していた。

「舞ちゃん、私と優奈はね、もう舞ちゃんが苦しむ姿は見たくない」

 やめてよ。余計な真似を、しないで。
 私の苦しむ姿を見たくないんだったら、こんな場所に連れて来ないでよ。
 この時ばかりは、優奈と沙梨を恨んだ。

「舞ちゃんに何があったのかは、知らない。でも、ちゃんと、ちゃんとテニス部の皆を見て。向き合って。逃げないで」

 漫画でも見たし、アニメでも見た彼等の姿。キラキラしていて、カッコいい。
 そんな彼等の中に混ざる、兄が私を見つけて、少し驚いた風にして、それでいて手を振ってくれた。私は、少し気持ちが軽くなって、なんとか笑みを返すことができた。
 沢山の部員を纏め上げる跡部先輩。そのそばに付き添う樺地くん。眠そうな芥川先輩。向日先輩は何が楽しいのかぴょんぴょん跳ねていて、忍足先輩はそんな向日先輩に呆れた顔で何かを話しかける。
 この前、鳳くんに触れられた腕の場所を、反対の手で触る。温かかった。彼の、手。血が通っている、人間だった。
 鳳くんは、私に「辛い」と言った。それにどこか、驚いている自分がいた。当たり前じゃないか。鳳くんにだって、感情はあるのだから。今まで私がそれを、見ていなかっただけで。

 この世界に生まれてきて、最初は怖かった。戸惑った。悲しかった。苦しかった。
 周りには知らない人ばかりで、父さんも母さんも友達も、誰一人としていなくて。ずっと、孤独を感じて生きてきた。
 今の両親は、私に前世の記憶あると言ったらどんな顔をするだろう? そう思うと、純粋に愛情をくれた両親に申し訳なくなって、罪悪感で胸がいっぱいになった。

「テニス部のみんなはね、いい人ばかりなんだよ。ちょっとナルシストだったり、意地悪だったりするけど、みんなテニスを一生懸命練習して、いつだって上を目指している」

 知ってる。
 だって、漫画で読んだ。彼等は、どんなに負けようとも、決して諦めるようなことはしなかった。いつだってカッコ良く、美しく描かれていた。
 前世では、そんな彼等が好きだった。いつか会えたらいいな、とかそんなバカみたいなことを思ったりもした。

「理由を話せとはいいません。ですが、わたくし達はもう我慢できないのです」

 ここが、漫画の世界だと認めてしまえば、この世界で生きる、そんな決心が崩れる。彼等を認めてしまえば、自分自身が異端だと認めてしまうことになり、普通じゃない、それを実感させられる。
 彼等と、出会わなければよかった。出会うもなにも、まだ話したことすらないけれども。
 私は、心の奥底で、いつか神様がやって来て「おまえを元の世界に戻してやろう」、そう言われるのを願ってた。
 そんなこと、ありえないのに。

 優奈や沙梨、お父さんやお母さん、お兄ちゃんは、紛れもなくこの世界で生きている。
 それは、彼等だって同じ。彼等は、キャラクターなんかじゃない。紛れもなくこの世界で生きている。
 そんなの、わかってた。わかってたんだけど、

「ご、めん」

 それは何に対する詫びだったのか。優奈と沙梨にか。今まで人間だと思えなかった彼等に対してか。それとも、自分自身にか。
 優奈と沙梨の表情が曇るのがわかった。違う、そうじゃない。

「わたしはっ……! 私は、嫌いじゃない。跡部先輩も、忍足先輩も、宍戸先輩も、向日先輩も、鳳くんも、日吉くんも、樺地くんもっ!」

 やっとのことで出した声は、少し震えていた。
 もしかしたら、初めて、彼等の名前を口にしたかもしれない。私は、誰かが話す彼等の名前を聞くのが嫌で、自分の口から出た彼等の名前を聞くのは、もっと辛かったから。

「でも、でもね、あの人達を見ていると、怖いの。あの人達が、あまりにも眩しくて。自分が、自分じゃなくなりそうで」

 優奈も沙梨も、ただ黙って私の話を聞いていた。

「嫌い、じゃない。嫌いなわけじゃ、ない。本当は、」

 本当は、好き。

「…………テニス部の皆は、怖くなんてないし、舞ちゃんが眩しがるような、そんな凄い人達じゃないよ。そりゃあ、テニスは強いけど。でも、世界はテニスだけじゃないよ」

 世界は、テニスだけじゃない。この世界は、“テニスの王子様”だけじゃない。
 私がこの学校に来る12年も決して幻なんかじゃなくて、現実。そして、沙梨も、優奈も、お兄ちゃんも。

「ねぇ知っていますか、舞。最近、日吉様が音楽の歌唱のテストで追試になったそうですよ。声が小さすぎて」
「え?」
「忍足様は、中学生料金で映画を見ようとしたら、断られたとか。学生証を見せてもダメだったそうです」

 突然語りだした優奈に、私はきょとん、とする。

「向日様は、ポケットに携帯を入れたままムーンサルトを行ったところ、携帯を落として壊してしまったとか」

 淡々と彼等のおかしな話を続ける優奈。樺地くんが、とか、跡部様が、とか。よくそんな話知っているなぁ、と思った。それは、優奈がファンクラブの会長だからだろうか。それとも、私が今まで聞かずにいただけで、皆は知っている話?
 私の知らない彼等。漫画にも出てこない彼等の姿。今まで知ろうともしなかった彼等の話を、優奈は語る。
 そして私は優奈の話が面白くて、思わずくすり、と笑ってしまった。

「やっと、笑いましたね」

 そんな私を見て、優奈は言った。
 ーーああ、そうか。私は彼等のことで、笑ったことなんてなかった。

「テニス部の皆様も、私達も、何も違いはありません。怖がる必要も、ありません」

 いつまでもこのままじゃいけないのはわかっている。
 私の勝手などうしようもない我儘で、沙梨を優奈を傷つけていた。そしてきっと、これからもお兄ちゃんや鳳くん達を傷つけることになる。だから私はきっと、変わらなきゃいけない。

「そう、だね。何も、変わらない、ね」

 だから。

「私は、もう、逃げないよ」

 ここが現実で、私はここで生きていて、彼等は人間だということがわかったから。こんな事でウジウジしていたらいけない。まだ、人生は長いから。ゆっくりでもいい。受け入れていかなくちゃ、いけない。
 私はこの世界で、生きて行くのだから。

「約束、だよ?」

 沙梨の、優奈の、その真っ直ぐな瞳に私は頷いた。
 自惚れなんかじゃなくて、彼女達は間違いなく私のことを、好いている。だから、私も大好きな彼女達の為に彼女達の期待に答えなきゃいけない。

 優奈と沙梨から目を外して、もう一度テニスコートで練習している彼等を見る。
 彼と、目が合う。彼は、微笑んだ。もう、私の体が恐怖で震えることはなかった。
 いつか、お兄ちゃんと沙梨も優奈も、テニス部の皆も、互いに笑い合えるような日がくればいい。その中に、私も入っていれば、尚更いい。それで、私も、皆も、笑って、今度こそ未練の無い人生を過ごせたら。
 そんなことを、願った。

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