オヤスミオヤスミまた来世
「私ん家、いま空気最悪なんだよね。お母さんなんかずっと泣いてて、お父さんは黙りっぱなしだしさあ。話しかけても無視。あーホント嫌になっちゃう。」
「……大変なんだね、名字さんの家。」
一歩手前を歩いた名字さんがくるりと踵を返し僕を見た。彼女の後ろにある夕焼けが、ユラユラと静かに燃えている。
「だからさ影山くん、これからチョット付き合ってよ。」
「え?」
「できるだけ家に居たくないんだよね。ねっお願い!」
「……ああ、うん。いいよ。僕で良ければ。」
影山くん優し〜!と言って名字さんが僕の背中をポンと叩く。彼女が笑う度にチラリと覗く八重歯が僕はなんだか好きだった。それがどういう好きか、なんてよくわからないけど。ふと見上げた家の窓からこちらを覗く猫を見かけたり、快晴の空に真っ直ぐ伸びる飛行機雲を見かけた時のような、そんな気持ちによく似ていた。
そのまましばらく2人で歩いて、クレープを買って食べた。近くにあったベンチに2人で腰を掛ける。僕はチョコバナナで、名字さんは何だか長い名前の、びっくりするくらい甘そうなやつを頼んでいた。
「本当にいいの?無理に付き合わせちゃったのに、奢らせちゃってゴメンね。」
「いいよ、僕バイトしてるし。」
「ありがとう。影山くんバイトしてたんだ、ちょっと意外。」
名字さんがいただきます、と言ってクレープを一口齧った。んまい!と指先で生クリームを拭いながらふくふくと笑って見せるのを見て、僕もそれに習ってクレープを齧る。
名字さんは色んな事を教えてくれた。甘い物と動物が好きだということ。白い猫を飼っていること。将来は絵本作家になりたかったということ。名字さんの話に相槌を打ちながら、クレープを食べる。僕はあまり会話が上手くないし、師匠みたいに面白くタメになる話もできないけど彼女と話すのは楽しかった。
「次は影山くんのことも教えてよ。」
「え、僕の?」
「うん。さっき話してたバイトって、どんな事をしてるの?」
クレープの包み紙をくるくると丸めながら名字さんは僕に手を伸ばした。
「ゴミ、捨てるね。」
差し出された彼女の右手に包み紙を乗せる。受け取った彼女は、ベンチの側にあるゴミ箱へと捨てた。それだけの仕草なのに、軽やかで綺麗な動きだと思った。今まで名字さんと2人で過ごす時間なんてなかったからわからなかったけど、綺麗な動作をする子なんだな、と初めて知った。
「僕のバイトは、幽霊を除霊する仕事なんだ。」
突然流れるように風が吹いて、名字さんの前髪が揺らした。夕日はもう数分で沈みきるだろう、星が疎らに輝いていた。朱色と紫のグラデーションが空を彩っている。
「名字さんは、その事を知ってて僕と一緒に帰ろうって誘ったんでしょ?」
「……うん。」
彼女は自分の指先をギュッと握り合っている。
「影山くん、私……死んじゃった。影山くん意外、誰も私のこと見えてない。お父さんもお母さんも、クラスのみんなも、クレープの店員さんも、私が見えないの。」
震える声で名字さんは続ける。彼女の目からぼたぼたと涙が溢れたので、ティッシュを渡そうと学ランのポケットを探るが見当たらなかった。不安になりながらも、恐る恐る名字さんの頬に手を伸ばして拭う事にした。
名字さんの頬は柔らかくて、涙は熱い。彼女自身の温もりをちゃんと感じる。
死んで日の浅い霊は死んだ事を受け入れられず、見た目も生前と然程変わらないようだった。だから僕の目の前には、いつもと変わらない名字さんが確かに存在している。
「こんな風に、もう誰にも触ってもらえないし、触れないの。」
「でも僕は触れるし名字さんが視えてる。」
「……うん。」
「でもいつまでもここにいちゃいけない。それは名字さんもわかってるんだ。だから、僕のところに来た。」
「…………うん。」
いつの間にか名字さんが僕の手を左手を握っている。女子と手を繋いだ事なんて無かったから、思わず身体が強張った。手汗が滲む。
「影山くん、お願いがあるの。」
不謹慎にもそんな事を考えていると、先ほどより幾分か落ち着いた名字さんがちいさな声で囁いた。
「何?」
「……抱きしめて、もらえないかな。」
「エッ!」
「……さよならのハグ。最期に、誰かの温かさを憶えておきたいの、……ダメかな。」
「……わ、わかった。」
ごめんね、こんなコト頼んで。
ぎこちなく広げる僕の腕の中に名字さんが軽やかに飛び込んだ。オンナノコの、名字さんの匂いが、する。
名字さんが少し苦しいくらいギュッと腕を回すので、僕もぎこちなくだけど彼女に腕を回した。
「お父さんとお母さん、私が居なくても大丈夫かな。」
「時間はかかるだろうけど、きっと大丈夫。」
「……そうだといいな。」
名字さんが背中に回す腕を緩めたので、僕も彼女の背中に手を添えるだけの形になる。名字さんの焦げ茶色の潤んだ瞳が、僕を見つめた。
「大好きなクレープを影山くんと一緒に食べられて嬉しかった。最期に抱き締めてくれてありがとう。私きっと、影山くんのことが好きだったんだと思う。なんて、気付くのが遅いけれど。……さようなら、茂雄くん。」
泣きながら笑った彼女が空気中へとほどけていった。例えるなら、蝶結びにした紐を解くときや、綿菓子を水に溶けていくような、軽やかな最期だった。
ふと見上げたマンションの一室から猫がこちらを見つめている。空にはもう幾千もの星が輝いていた。