死がふたりを分かつとも



 ― 天竺 ―
 この地に置いて、その名を聞いて震え上がらない者など存在はしない。その単語を聞いて普通の人間が思い浮かべるものと言ったら何だろう。三蔵法師一行が目指した地だろうか?
 しかしこの地に住む者たちはこぞってその言葉に恐怖を覚える。その言葉を聞いて思い浮かぶ言葉はどれも物騒で、死に繋がる様なものばかりだった。話題に出す事すら恐れられる。小さい子供には「濃紺の空に月が輝く時、悪夢はひっそりとお前を連れ去ってしまう」と言い聞かせ、夜の外出を控える様にと言い聞かせた。悪夢とは勿論天竺の事である。
 彼らはまさに極悪非道。売春、麻薬、密輸、賭博、人身売買、殺人。悪と称される所業は全て行う。邪魔をするのであればたとえ警官でも容赦はしない。職業・地位・老若男女なんてものは関係ない。彼らにとって重要なのは組織にとって必要か、不必要か、のみである。少しでもこの地で犯罪に手を染める者ならば、天竺の逆鱗に触れない様にしなければならないと言うのが暗黙のルール。触れようものなら、その者にはいっそ殺してくれとせがむほどの苦痛が待ち受ける事になるだろう。
 それ程までに恐れられている天竺だが、実は天竺に関する情報はあまり知られていない。恐怖故えに調べる者が少ないのも理由の一つだが、最大の理由は知りすぎた者は消されるからだ。
 天竺を構成する下っ端は沢山いる。この地のどこにだっている。だからこそこの地に住む者たちは、いつどこで何を何をされるかわからない恐怖に日々恐れている。だが、この何万といる構成員ですら幹部の情報をほとんど知らなかった。そもそも天竺が創立してから日が浅いという事もあるのだが、幹部の顔ですら組織の限られた人間しか知らない。それもその筈、情報が要ともいえる黒社会で生きる天竺の幹部たちはこぞって情報を操作し、天竺の弱みになりえるものを少しでも潰していったのだ。
 だからこそ、仮に僅かな情報を掴んだところでその情報の真偽を確かめられる者は存在しない。只一つわかっている事と言えば、彼らは太陰太極図をシンボルとして使っているという事のみである。それが普通の人間から見た天竺と言う組織である。

 ―とある、建物の一室。
 絢爛豪華な調度品で整えられた部屋の奥、天蓋から垂れる上質な布の奥で寝台に寝そべりながら紫煙を燻らせる男がいた。男の名はイザナ。誰もが恐れを抱く天竺の総帥である。褐色の肌に銀色の髪。藤色の瞳を縁取る睫毛は長く、中性的な顔立ち。その姿だけでは、誰もあの天竺の総帥だとは思わないだろう。そんなイザナの傍らには女が一人。白く陶器の様に滑らかな肌に緑がかった黒色の髪、少し吊り上がった大きな瞳。ぷっくりと膨らんだ形のいい赤い唇。誰が見ても美しいと称賛する姿をしている女だった。女の名はなまえと言う。天竺創立時よりイザナの傍にいる謎の多い女である。実際に彼女の実力や仕事内容を知っているのは幹部の中でも三人しかいない。
 なまえは、イザナが望まない時以外は常にイザナの傍いた。イザナ同様に見た目だけでは、マフィアと称される組織に所属しているとは露程も思われない姿だが、胸元の開いた旗袍からは太陰太極図の刺青が姿を覗かせていた。それはなまえが天竺であると同時にイザナの所有物であるという確固たる証である。

 なまえとイザナの出会いは、今から十数年程遡る事になる。
 繁華街を少し行くと大きなスラム街があった。おもちゃのブロックの様に積み上げられた家々。恐ろし気な雰囲気を漂わせるそのスラム街でイザナとなまえは一緒に育った。親の顔なんてお互いに知らない。幼い頃にこの場に捨てられたのか、はたまたこの地で生まれ育ったのかなんて事すらわからない。物心つくころには両親と呼ばれる存在なんてものはいなかった。自身の名前だって自分たちで決めた。周りの大人たちを信用出来ないこの場所で、心を許せるのはお互いのみ。そんな環境で育った二人にはそもそも倫理観という物が存在しなかった。
 無法地帯であるその場所は犯罪の温床であった。盗みなんてものは日常茶飯事。むしろ序の口。生きるためにそこに住む誰もが必死だった。今日はなんとか食べられた。でも明日は?そんな過酷な環境下で法なんてものは一切機能しない。生きて一日を終える為にはどんな事でもやるしかなかった。それでもイザナはなまえが、なまえはイザナがいればそれだけでよかったのである。いつか二人でこの腐った場所から抜け出して幸せになろうね。といつも寝る前に言い聞かせ合っていた。いつか身寄りのない者を集め、自分たちで国をつくり、居場所をつくる。それだけが当時の二人の希望だった。そんな二人に転機は突然訪れる。
 その日は、朝からついていなかった。やっとの思いで見つけた食料はすんでの所で大人の男に取られた。その際に男に殴られた右頬が痛む。歯が抜けなかっただけましだ。その後も探せど食料は見つからず、今夜の食事は諦めるしかないと家に向かおうとすれば、近くに住む幼い子供が慌てた様子でイザナの元に駆けてきた。



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